3077 “もう一つの中国”への旅(旅315)
――“もう一つの中国”への旅(旅315)
彼らは自らの地球規模の広がりを「四海為家(世界は我が家)」と表現するが、じつは「四海」は中国の外側を指すわけではなく、「家」には中国の内側も含まれる。双方を「幇」が結びつける。それは秘密結社めいたオドロオドロシき組織ではなく、庶民が育んだ相互扶助のカラクリと捉えるべきだろう。
ここで黒田から離れ、幇のネットワークについて些か考えたい。
たとえば『中国・繁栄の裏側』(村山宏、日本経済新聞社、2002年)である。
「北京市内から車で南西に二、三十分ほど進むと人々が“浙江村”(豊台区内)と呼ぶ、出稼ぎ者の街がある。長江下流域の南側にあたる浙江省の出身者が固まって寝泊まりしていることから、この名前がつけられた。浙江村に寄りつく人々は杭州、寧波のような浙江省の都会から来た商人もいるが、多くの住人は周辺の農村部から一家ごとに上京し、北京で商売をはじめた“にわか商人”だ。新中国成立前に中国の経済を牛耳った浙江財閥に代表されるように、この省の住民には商売の気風が脈々と受け継がれているのか、外の世界に飛び出し、中国各地で行商するものが今も多い。
浙江省は北東に進めば中国第一の都市、上海があり、工業もめざましく進歩しているような印象があるが、都会をほんの少し離れれば貧困の村々が点在する省だ。「都会で商売をして一旗揚げよう」と人々が次々に農村を後にする。浙江省の商人たちは競争が激しい杭州、上海を飛び越え、商業が未発達で、もうけの大きそうな首都の北京に流れ込んできたのだ。浙江村の男は絹など繊維産業の盛んな浙江各地から布を仕入れ、女がミシンで洋服を仕立てる。出来上がった洋服は男がまた売り買いする。浙江村には、こうしてできた格安の洋服が路上で売られている。村には自前の学校から理髪店、浙江料理の店まで生活に必要なものはなんでもある」
これが黒田の中国旅行から120年余、鄧小平が踏み切った改革・開放から20年ほどが過ぎた頃の中国の姿である。いわば「為人民服務」「自力更生」「革命無罪」「造反有理」の毛沢東の時代が終わるや、アッという間に牢固とした伝統が息を吹き返してしまった。日本人記者の伝える北京の浙江村が、その生々しくもホットな証拠だろう。
やはり中国庶民は、新しく華々しく始まった“開放時代に相応しい伝統手法”の「自力更生」――毛沢東式「自力更生」とは異なるが――に則って自分たちの生きる術を探った。だから「為人民服務」は「為自己服務」、「革命無罪」は「蓄財無罪」、「脱法有理」。もっとも「脱法」には「カネ儲けのため限定」という厳格なワクが嵌められているわけだが。
じつは「其本店ノ地ニ因テ組合ヲナシ或ハ同業ニ就テ組合ヲ結ヒ會館ヲ設テ商務ヲ議シ一致協力シテ利益ヲ謀ル。ソノ組合ヲ指シテ幇ト云フ」と黒田が記してから60年ほどが過ぎた昭和17、18、19年の北京でギルドの現地調査を行い、後に中国法制史研究の世界的権威と呼ばれるに至った仁井田陞の『中國の社會とギルド』(岩波書店、1951年)に基づいて、なぜ漢口で「其本店ノ地ニ因テ組合ヲナ」し、「會館ヲ設テ商務ヲ議シ一致協力シテ利益ヲ謀ル」るかを、考えてみたい。
そこで仁井田は中国社会の内部構造を、「同族(血縁)や同郷(地縁)や、同學(學縁)や、同敎(敎縁)や同業(業縁)や、又、血縁の擬制というべき親分、子分、兄弟分關係の諸結合など、大小いくつもの、又、幾種もの社會集團が重なり合っているのであって、人はそのうちの一つに限らず、いくつもの關係をもってきた。人は生きて行くために、よりよくその生命と財産とを守るために、血縁のような自然的結合關係にたよるのは勿論のこと、人爲的な結合關係をもできるだけ作って、つとめてこれをたよりにしようとする」と解いてみせた。となると「人爲的な結合關係」の核が「幇」のようだ。《QWD》
