3076 “もう一つの中国”への旅(旅314)
――“もう一つの中国”への旅(旅314)
香港で岡がオーストラリア在住の野坂(出雲出身)や二木(筑前出身)からオーストラリアにおける「中民」「中人」の事情を聞いていた頃、従者を引き連れた黒田清隆(天保11=1840年~明治33=1900年)が香港に現れた。黒田の個人的経歴でいうなら、北海道開拓使官営事業廃止に伴う「開拓使官物払い下げ事件」がキッカケとなった「明治14年の政変」を遠因とし開拓長官から内閣顧問へと降格処分を受けた直後に当たるだろう。
この旅を記録した『漫游見聞録(上下)』(明治十八年)は、こう書き出されている。
「今般游歷ノ地ハ香港ニ始マリ次ニ廣東澳門ヨリ南ハ西貢新嘉坡ニ及ヒ中間福州澎湖島台灣淡水鷄籠北ハ天津北京及ヒ張家口西ハ揚子江ヲ沂リ漢口を經テ宜昌ニ至リ往來里程凡一萬二千二百三十七英里日タル百八十五日其間見聞事状ヲ彙シテ此編ヲ輯ス行路匆々ノ採訪ニ係リ誤謬ナキヲ保セス觀者幸ニ是正ヲ賜ハヽ幸甚」
内閣顧問という閑職に飛ばされはしたものの、旅行からほどない明治21(1888年)には内閣総理大臣に就いたばかりか、それから数年を経ずして日清戦争が勃発しているわけだから、当然、すでに明治政府は清国を仮想敵国と見なしていただろうし、世界史的にいうなら西欧列強の間で中国を舞台にグレート・ゲームが激しく展開されていた時期だ。であればこそ前後185日もの長期に亘って清国の政治経済の心臓部を隈なく歩くに止まらず、わざわざフランス殖民地下の西貢(サイゴン)、さらにイギリスが東洋に築いたもう1つの殖民地である新嘉坡(シンガポール)にまで足を延ばしたはずだ。
『漫游見聞録(上下)』は、「政体」「風俗」「度量衡及貨幣」「關税」「船舶」「貿易」「兵事」と続き、以下は広東、福州、澎湖島、淡水、鷄籠、鎭海、上海、芝罘、天津、北京、張家口、漢口、鎭江、蕪湖、九江、宜昌、福州、淡水、廣東、香港、澳門、西貢、新嘉坡と各都市に関する詳細な見聞記を収める。ここからも、この旅が「明治14年の政変」に巻き込まれて思わぬ不覚を取った重臣の憂さ晴らしでも、ましてや物見遊山の旅でもないことは明らかだろう。先ずは兵要地誌作りであり、清国の継戦能力調査であり、フランス、イギリスの極東政策探査と見るのが当を得ているのではないか。
さてそこで、中国本部の東西と南北の結び目に当たる長江中流域の要衝である漢口を訪ねた時のことである。商売における「幇」の役割に、黒田は関心を向けた。
漢口の「住民中土着ノモノハ十分ノ一ノミ」。商家に至っては全員が他省出身。どうやら漢口は出稼ぎの街ということになる。土着を名乗る商家であっても、彼らの出身地を問い質すと多くは江西省であることを明かす。
漢口を起点に水路が四通八達しているから「遠省近府ヲ問ハス物資悉クニ聚」った後、再び各地の需要と供給に応じて物資は行ったり来たり。そこで各地の商家が支店や出張所を出していることになるわけだが、それらは「其本店ノ地ニ因テ組合ヲナシ或ハ同業ニ就テ組合ヲ結ヒ會館ヲ設テ商務ヲ議シ一致協力シテ利益ヲ謀ル。ソノ組合ヲ指シテ幇ト云フ」。ここで黒田は「幇」、つまり地縁(同郷)と業縁(同業)をテコに結びついたビジネス・ネットワークに着目したのである。
「幇」とは幇助の2文字から連想されるように助け合いを意味し、この地縁・業縁を軸にした幇のネットワークは漢口だけではなく、全国各主要都市に設けられた「會館」を拠点にして展開されている。じつは会館は動産・不動産などの資産を持ち、それらを運用して増やした資金を同郷・同業仲間に超低利(時に無担保・無利子)で提供するなどして、故郷を遠く離れた同郷や同業が幇助し合った。このシステムが海外各地の中華街に展開され、現在に繋がる華僑・華人ネットワークへと拡大していったと捉えるなら、こと漢族社会のカラクリから考えるなら、中国と海外華人社会とは地続きではないか。《QED》
