3075 “もう一つの中国”への旅(旅313)

【知道中国 3075回】二六・十・仲三

  ――“もう一つの中国”への旅(旅313)

ここで「子ツツリ子ツツリ」で頭に浮かんだ四字成句をザッと拾ってみると、「臥薪嘗胆」からはじまって、「愚公移山」、「毋忘在莒」、毛沢東の「自力更生」「超英趕美」を経て、トドメはやはり鄧小平の「韜光養晦」となるだろう。

いちいち出典を挙げての説明は避けるが、どれもが現在の苦境・屈辱を忘れることなく、耐え忍び、苦労を厭わず、力をつけ、復讐の方策を練り上げ研ぎ澄ませ、やがて目的を達成してみせるといった一貫不惑の決意で共通している。因みに「毋忘在莒」は台湾に逃れながら大陸反攻に執念を燃やしていた蔣介石が掲げていた。1968年夏の語学研修の際、戒厳令下にあった当時の台湾各地でヤケに目についたのが「毋忘在莒」の4文字だった。

こう並べてみると、「臥薪嘗胆」「愚公移山」「毋忘在莒」「自力更生」「超英趕美」「韜光養晦」を貫くメンタリティーは「子ツツリ子ツツリ」に通じているばかりか、その先に習近平の「中華民族の偉大な復興」「中国の夢」が位置づけられるようにも思える。

そこで、「子ツツリ子ツツリ」は彼らの振る舞いを読み解くキーワードではなかろうか、と考えてみた。ならば、その先に復仇の2文字が浮かび上がってくるのも道理だろう。

ここで「子ツツリ子ツツリ」で思い当たる香港での体験を紹介しておきたい。

あれは改革・開放政策が緒に就いた1980年代の初頭のことだった。バンコク調査の帰路に香港に立ち寄ると、友人のSが面白い人に会わせてやる、と。Sの案内で繁華街の裏通りへ。年代物のエレベーターで上った先がSの友人宅。だが目指す相手は友人ではなく、友人の家の1部屋を間借りしている借家人であった。

ドアを開けると、奇妙な風景が目に飛び込んできた。広さ6畳ほどの大部分を占拠するのは木枠で頑丈に梱包されたスーツケース大の荷物の数々。そこに住むのは兄弟2人の家族に彼らの母親。全部で11人だったように記憶する。荷物の最上部に布団が敷かれていた。彼らにとっての居間は荷物と壁のすき間で、寝室は荷物と天井の間の空間だった。

彼らはハルビンからやって来た。兄は医者で、弟は確か営林署で働いていたと自己紹介してくれた。オーストラリアへの移住許可待ちで、香港に留まっているとのこと。ハルビンから香港までの長距離の汽車の旅である。現在と違い路線の接続は劣悪で、乗り換えが繰り返される。その都度、11人全員で手分けして積み替えたというから、想像を絶する苦労があったはず。「駅員の手伝いは」と尋ねたら、「誰だって他人のことなど構っていられないから、自分たちでするしかなかった」と。これぞ臥薪嘗胆で自力更生だろう。「オーストラリア移住後は」。すると兄の方が生活設計を解説してくれた。

 

「医者をしたいが、オーストラリア政府が中国の医師免許を、そのままスンナリと認めをワケがない。ダメなら医者の試験を受ける。だから医者が始められるまでは、兄弟2家族は中華料理で食い繋ぐ。鍋釜の台所道具一揃えを持参している。得意料理は弟が餃子で、私はチャーハンだ。取りあえず餃子とチャーハンさえ出しておけば、オーストラリア人にとっては立派な中華料理だろう。ヤツらに中華料理の味なんぞ判るもんかい」

 それから暫くして、あの一家は無事にオーストラリアに旅立っていったと、Sからの知らせが届いた。

 

すでに40年ほどが過ぎ去ったが、時折、フッと彼らを思い出すことがある。オーストラリアで当初の目論み通りに医者を開業できただろうか。取り敢えず開店した中華レストランが予想以上の大当たりをみせたことから、医術より算術ヘの転身だってアリだろう。急増する新規渡来者を相手にした不動産ビジネスに励んでいるだろうか。はたまたオーストラリアに早々と見切りをつけ、アメリカ辺りに移っているのでは。まさかハルビンにUターンはないだろうとは思うが、こればっかりは、まったくワカリマセン。《QED》