3073 “もう一つの中国”への旅(旅311)

【知道中国 3073回】                      二六・十・初九

  ――“もう一つの中国”への旅(旅311)

続けて宮崎は「子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の氣根」を詳しく説いた。やや冗長な引用にはなるが、宮崎の時代から20世紀を挟んだ130年ほど後の現在からみても大いに参考になる――ということは、異郷における彼らの振る舞いに大差はないということだろうか――と考えるので、敢えて記しておきたい。

 

「(船会社は一例に過ぎず)其他精米所、木材會社、若しくは鐵道會社に至るまで、總ての會社、總ての事業に、支那人を使役せざるものなし」。彼らの雇用を止めたなら、「諸會社事業は共に中止せざる可からず」。商業部門に目を転じても、「屑屋、空瓶買、氷商等の小より、貸馬車、裁縫師、洗濯屋、靴師、寫眞師、汁粉屋、煮賣屋、賭博屋上がり、西洋料理、支那料理乃至女郎屋に至るまで大凡そ社會の需要物は一として支那人の手に備はざるものなく、大は雜貨店、木材店、米穀仲買等殆ど悉く支那人の手に依つて運轉せらる」。そこで宮崎は、「彼等が商業經濟社會上に於て全權を有すると云ふも其過言ならざるを信ず」とした。

 

経済活動全般を押さえているばかりか、シャムでは国家財政の中核である営業税の徴収までも「入札を以て受負ふの特權を、支那人に限つて之を與へ、収税の事は一切其落札者に放任して顧みざる」のである。他国では考えられないこと。以上からみても、だが「彼等が經濟上の如何なる勢力を有するか」は容易に判断できるはずだ。

 

率直にいうなら「暹羅は近年に至るまで、殆ど清國の半屬國の如き有樣」だが、それというのも彼らが古くから「此地に侵入し始め」たからだ。「今日も猶ほ一舟毎に百、二百人位の渡來者」がみられるところから判断して、「将來の勢力は亦實に測り知る可からず」。彼らの多くは「南清廣東及其附近の者」で、「俗に所謂廣東苦力」である。

 

そもそも、この国で、彼らはどのようにして生き抜いてきたのか。

 先ずは「身躰一つの勞働者より、漸次商人となり、遂に鉅萬の富を積む」わけで、最初から資本を持った商人としてやって来る例は極めて稀である。「彼等は他に向つては往々不義不德の行爲」をしがちだが、「相互組合上且つは、商賣上に至つては德義を守り、信用を重んずること實に無類なり」。ここに彼ら「彼等が膨張の第一要素」があると、宮崎は指摘した。

 次に宮崎の関心は「相互組合」に転じる。

 

「彼等相携へて當地に來るや、五、六の親懇相結んで同盟をなし、最初は豚小屋の如き寄宿舎所」に極めて安価な宿泊料で寝起きする。そうこうするうちに「古参の勞働周旋人に依つて、勞働の口にあり付く」。その後は爪に火を点すようにしてカネを貯め、それぞれがカネを出し合って「所謂合資的組織になし極々小さき一軒を借り、煮賣店なり、コーヒー店なりを開き」、仲間内で「理財に長け世故に通じ、且つ信用あるものを推して之を監督せしめ」ながら、他は以前通りに仕事に励む。

こうして日々の肉体労働によって生み出すものと、商売で稼ぎ出した資金を再投資して商売の規模を拡大し、仲間のうちから肉体労働から商店経営へと順次転じ、やがて仲間全員が「純全たる商人」となる。ここまでくれば「彼等の立身出世は早きもの」であって、「歳月と共に漸々盛大となつて、一箇の大商となる」のだが、仲間うちの個々人の権利財産はシッカリと守られている。

ここで注目すべきは新たに仲間ヘの参加希望者がいた場合だ。代表は「直に令を同人等に發して」、仲間に「一人前何錢と額を定めて人頭に割當て、數百金を集め、之を與へて以て業を營ましむ」。こうして彼らは異郷においても仲間うちの支援をえて、確固とした生活基盤を築く。これこそが相互扶助・互恵互利のカラクリと、宮崎は捉えた。《QED》