3072 “もう一つの中国”への旅(旅310)

【知道中国 3072回】                      二六・十・初七

  ――“もう一つの中国”への旅(旅310)

岡にオーストラリアにおける「中人」「中民」の現況をつたえた二木ら日本人も宮崎を同じように「醜美無差別、糞味噌一躰の平等界」を耐え抜いたのだろうか。もう少し上等待遇の船客だったと思いたいのだが。

ここで興味を持ったのは、オーストラリアにおいて二木ら日本人と「福建廣東賤民」の日常生活の違い。言いかえるなら異郷における生活振りとでもいっておこうか。その辺りについては、残念ながら岡は言及記していない。二木は伝えてものの、岡が日記に書き留めておくほどではないと判断したのか。岡の『觀光紀游』では知ることができない。とはいえ、日本人として知っておきたいところ。そこで登場願うのが宮崎滔天となろうか。

じつは宮崎が「醜美無差別、糞味噌一躰の平等界」を耐えてシンガポールを経てバンコクに到着したのは明治29(1896)年4月2日で、同地を離れたのは6月1日。この間、2カ月弱。疑似コレラに罹り10日ほど生死の間を彷徨っているから、歩き回ったのは50日弱と思われる。この間の見聞を「暹羅に於ける支那人」(『宮崎滔天全集 第五巻』平凡社、昭和51年)に詳細に記している。

「香港、新嘉坡に一度足を止めるものは何人も、支那人の勢力に一驚を喫せざるものはあらざるべし」と綴った後、バンコクでは「第一に目立つものは矢張支那人なり。怪しむことなきなり、彼等は人數に於いて本國人より多く、實力に於て遙かに本國人の上にあればなり」。当時、「本國人」は今よりもっと劣勢だったに違いない。

かくして「有躰に曰へば、暹羅は支那人に依つて立ち、支那人の爲に維持せらる。換言すれば、暹羅は暹羅人の暹羅にあらずして、支那人の暹羅とこそ言ふべけれ」となる。

続いて宮崎は暹羅(シャム=タイ)における「彼等の状景」を語りながら、現地在住の日本人との違いを綴っていく。

「暹羅全土に六百萬、盤谷(バンコク)府中にて二十萬以上の人口を占める支那人は」、「暹羅の惡法惡政」の下、一切の外交的庇護もないが、「暹羅國百般の機關が支那人の手に依つて」経営されている。市中を走る「數千輛の日本人力車を挽くもの土人(シャム人)に一人もなくして悉く支那人」、市場で肉、魚、野菜を売っているのは「土人少なくして支那人多し」、船会社では「大工、鍛冶、機械方より通常工夫に至る迄、殆ど皆支那人」であるばかりか、彼らは安い賃金でも働くから、「此會社にして一旦支那人と手を斷」った場合は、「事業は直下に中止せざる可からず」。ならば日本人を雇えばいいのだが、そうしたら日清戦争の影響もあり、支那人労働者が反日を掲げてストライキを起こしかねない。そこで日本人を少しずつ雇うようになった。

支那人労働者を雇う船会社の西欧人社長は「彼等の仕事の手ぬるさと、盗人根性に」は悩まされるばかり、と説く。それでも雇わざるをえないのは、現地人が大いに劣るからであり、「畢竟支那人以外に人」が見当たらないからだ。そこで日本人を雇うことにしたが、その働きぶりには目を見張るものがあり、他社も高い関心を示し、「一般に日本人勞働者の雇入を熱望」することとなった。

だが、「惜む可し」である。「此名聲は一ヶ月を經ざるに消滅して、却て三日坊主の嘲を博せり」。それというのも日本人労働者が「賃錢が安ひとか、仕事が酷ひとか、始めより明白なる事柄に無理々窟を付けて會社より逃亡し、僅かの賃錢の差の爲に他に轉じて、猶ほ馬脚を顯はし」てしまうから。あるいは自業自得とでもいうべきか。

かくて宮崎は「一氣呵成の業は我人民の得意ならんなれども」と評す一方、「此熱帶國にて、急がず、噪がず、子ツツリ子ツツリ遣て除ける支那人の氣根には中々及ぶ可からず」と記す。「一氣呵成」VS「子ツツリ子ツツリ」が宮崎の結論らしい。《QED》