3070 “もう一つの中国”への旅(旅308)
【知道中国 3070回】二六・十・初三
――“もう一つの中国”への旅(旅308)
19世紀半ばにアメリカ西海岸でゴールドラッシュが巻き起こるや、大量の華工――「苦力」と呼ばれた裸一貫の無資本肉体労働者――が太平洋を渡ってドット押し寄せる。次いで1851年にオーストラリア東南部(ヴィクトリア州、ニュー・サウスウエルズ州)でも金鉱山が発見され、これまた福建・広東辺りから華工が大挙して海を渡っている。二木が語った「四十萬戸」を数える「中民」「中人」は苦力だと思われるが、それにしては人数が多すぎる。やはりなにかの間違いだろう。
ところで中国人はアメリカでのゴールドラッシュの中心だったサンフランシスコを「旧金山」と漢字表記するが、それはオーストラリアでのゴールドラッシュに先んじたから(「旧い」ということ)であり、そこでオーストラリアは「新金山」ということになる。オーストラリア東海岸中央部に位置するゴールドコーストなど、19世紀半ばのゴールドラッシの名残に違いない。
じつは主として広東人はアメリカを「金山(カムサン)」とも呼んだ。それというのも、どんな苦難な旅であろうが耐えて、耐えて、耐え抜いてアメリカに渡りさえすればカネを稼げる。アメリカには「揺銭樹(カネのなる木)」が数え切れないほどに生えている。こう信じればこそ、だろう。
最近、日本にやって来てカネ儲けに勤しんでいる中国人を「潤日」などと呼び、なにか目新しい行動をしているかのように扱っている報道もみられるが、海外に飛び出す中国人の振る舞いとしては決して新規なことではない。とどのつまり中国を飛び出して異郷での揺銭樹探しは、昔も今も同じようなものなのだ。
さて、ここで訂正を。改めて岡の日記を読み返すと、オーストラリアで小商い営む邦人は「五戸」ではなく「六戸」だったことに気がついたので、改めて訂正を。
邦人が「五戸」であれ「六戸」であれ、圧倒的多数の「中人」「中民」を前にしては劣勢であったであろうことは想像に難くないばかりか、想像以上に古くから中国人がオーストラリア社会に根を張っていたことに驚かされるばかりだ。その一端を、2010年代半ばにシドニー、キャンベラ、メルボルなどを旅行した際に思い知らされた。
どこまでも広がる牧草地を走る一本道。やって出会す小さな街には××士多(ストアー)とか××飯荘(レストラン)の漢字看板。田舎がこれだから、大きな街には“中国文化”の香りがプンプン。たとえばメルボルン。街外れに設けられた広大な別墅(きょうどうぼち)。中華街で入った中国語書店では書棚であれ平積みであれ中国、香港、台湾の書籍がビッシリと置かれていた。古い建築様式の3階建てのビルに壁には浮き彫りの「中国国民党支部」の文字が。極め付きは夕食に入った中華レストラン。規模は中程度で、椅子やテーブルに食器は高級とは程遠い。料理は若干濃いめだがマズマズの味。加えて値段はリーゾナブル。どのテーブルも満席で、極め付きは“沸騰”と表現するのが相応しいような広東語の応酬。まるで香港の庶民の街――九龍なら油麻地か旺角、香港島なら北角か銅鑼湾辺り――の老舗レストランを思い起こさせるに十分な雰囲気だった。
ところで二木らから「福建廣東賤民」がどのようにしてオーストラリアに渡ったかを詳しく聞いていなかったらしく、岡の日記にはその点が見当たらない。ところが岡の旅行から10年ほど遅れ、宮崎滔天が彼らと船旅を共にしていてくれたのである。
明治29(1896)年3月21日、宮崎が乗った司馬懿号に新嘉坡(シンガポール)を目指す「支那勞働者千有餘人一時に乘込み、室内甲板立錐の餘地なきに至り、各々處を爭ふ混雜一方ならず、其處此處の喧嘩口論八釜敷さ言はん方なし」とか。
かくて、これから船内は「糞味噌一躰の平等界」がはじまってしまうのだ。《QED》
