3069 “もう一つの中国”への旅(旅307)

【知道中国 3069回】                      二六・十・初一

  ――“もう一つの中国”への旅(旅307)

さらに二木は続ける。

「オーストラリアの東南洋上にはプロシャが国旗を立て領土としている島がありますが、この島がインドへの航路の要衝でもあり、イギリスはプロシャの主張を拒んでおります。これにプロシャは不承知でして、この島がイギリス領というのなら防衛態勢を整えておくべきだ。イギリス人は住んでもいないじゃないか。ましてや軍の守りが見られないのだから無主の島というべきであり、イギリス政府がとやかく口を差し挟む筋合いの問題じゃなかろうに、ということです。フランスはフランスで、ニューカレドニア島の所属をめぐってイギリスと争っております」

 

ここまで聞いて岡は「百年之後。五洲大勢」に思いを馳せることになるのだが、その辺りは岡の記す漢文の雰囲気を残して訳しておきたい。

 

「歐米の電線滊艦(じょうほうつうしん・ぐんじぎじゅつ)は萬里(せかい)を馳逐(かけめぐ)る。狼呑虎噬(よわいくにをむしゃぶ)り、遠畧(しんりゃく)を專らにす。百年の後、五洲(せかい)の大勢、何(いずれ)の状(かたち)と爲らんか」

 

欧米の先進諸国は軍備を増強し、最新軍事技術を駆使し、地球の果てまでも軍隊を差し向け、弱国を貪り喰らおうとしている。道義も何もあったものではない。大国による剥き出しの欲望が国際政治を突き動かし、領土強奪が当たり前の時代である。岡が「百年の後」に思いを馳せた頃から数えるなら19、20、21世紀と足かけ3世紀で150年ほどが過ぎようとしているにもかかわらず、現在の「五洲の大勢」は、相も変わらず「歐米の電線滊艦は萬里を馳逐」るばかり。いや、いまや「中華文明の偉大な復興」であり「中国の夢」までが重くのしかかっている有り様だ。

 

さて二木の説に従うなら、当時のオーストラリアにおける日本人対「中民」(「中人」)の比率は「五戸」対「四十萬戸」となる。「戸」を一家族5人として数えるなら、日本人の25人に対し中国人は200万人ほどになってしまう計算だ。当時のオーストラリアの人口は推定で750万人とされているから、200万では余りにも多すぎる。

 『華僑華人百科全書・歴史巻』(《華僑華人百科全書・歴史巻》編輯委員会、新華書店、2002年)など中国で出版されている何冊かの関連書に当たってみたところ、二木ら日本人が居住していた頃のオーストラリアにおける漢族の最多人口は1881年の38,702人(1881年)であり、やはり「四十萬戸」は実情にそぐわない。

 

なぜ二木が「四十萬戸」という数字を挙げたのかは判断のしようがないが、あるいは岡が聞き間違えたのかもしれない。あるいはオーストラリアにすら強く根を張る彼らの社会の実情を垣間見た二木が、「日本人が考える中国人は本当の中国人ではありません。『惡衣』であろうが、『菲食』であろうが一向に気にすることなく、『賤汚』の仕事でもなんでも引き受け、まるで馬車馬も負かすほどに働いて、働いて、働いて。刻苦勉励・悪戦苦闘の末に3、4年で『千金』を貯めて込んだら国に帰っていくんです。これが中国人の本当の姿です」と訴えたかったようにも思える。

 

モノはついで、というから、この機会にオーストラリアにおける中国からの移住の歴史を簡単に振り返っておくのも、なにかの参考になろうか。

 

1847年というからアヘン戦争勃発の7年後である。日本では第12代将軍の徳川家慶治世下の弘化4年で、大塩平八郎の乱の10年後。明ければ嘉永元年に当たるこの年、約3000人が広東から、翌(48)年にはマカオから120人が華工(中国人労働者)として送り込まれている。定かではないものの、それ以前のかなり早い段階から中国商人がオーストラリア北部にまで足を伸ばしていたとも伝えられる。《QED》