3068 “もう一つの中国”への旅(旅306)
――“もう一つの中国”への旅(旅306)
天安門事件で欧米からの経済制裁を受けた苦境を切り抜けるために鄧小平が持ち出した“魔法の言葉”である「愛国同胞」。すでに指摘しておいたように、その「国」に“もう一つの中国”も極めて機敏・巧妙に反応する。この点は、これからも言及する積もりだ。
ここで再び脇道に足を踏み入れ、日本人は“もう一つの中国”に、いつの頃に気がつき、どのように理解してきたのか。この問題を考えてみたい。なお話を進める都合から、過去に取り扱った部分(主に1202から2118回)から関連する個所を再録することもあるが、よりスムースな理解のためとご理解をお願いする。
先ず取り上げたいのが岡千仞(天保4=1833年~大正3=1914年)である。仙台藩士で幕末から明治期を代表する漢学者で知られる岡は、江戸幕府創設の最高学府である昌平黌出身の逸材で、清川八郎、本間精一などを門人に従えて尊王攘夷の論陣を張ったことで知られる。戊辰戦争の際には欧州列藩同盟に参画した罪により、仙台藩から投獄処分を受けた。明治政府や東京府に勤務した後には旧仙台藩邸に私塾(綏猷堂)を開き、福本日南、尾崎紅葉、片山潜などを教育した。友人の1人に福澤諭吉がいる。晩年は大陸経綸を志し、李鴻章などとも交友を結んだ。
明治17(1884)年の5月末、岡は新橋停車場を発ち横浜で乗船し、神戸を経て上海に向かった。以来1年ほどの時間をかけ長江流域はもちろん、南下し香港にまで足を延ばしているが、この間の日々を『觀光紀游』(明治二十五年)として残している。じつは全文が漢文で記されていて、それなりに当時の日本の漢学家・儒家が身に付けた漢文の“冴え”を知ることができて興味深いのだが、ここでは漢文問題は一先ず棚上げとして、日記のなかで言及しているオーストラリアにおける「中民」「中人」の様子を探ってみたい。
――明治18(1985)年2月20日、『澳洲(オーストラリア)』に住む野坂という出雲出身者が訪ねて来た。オーストラリアの事情を尋ねたところ、気候風土は快適で、住んでいる邦人の男は100人ほどだが女は僅かに5人。男は日本に戻り結婚した後、再びオーストラリアを目指す。後に同じくオーストラリア在住の二木という筑前出身者に訊いたところでは、イギリス人が神戸で100人ほどの漁師を雇い、オーストラリア南方の離島で真珠採集に当たらせているという。
この二木は翌(3)月10日に岡を再訪し、オーストラリア事情を詳しく話しているので、それを岡の漢文に従って会話風に訳してみた。
「はい、『米爾梵(メルボルン)』から28昼夜を掛けて香港に参った次第です。オーストラの広さは我が日本の20倍ですから、それは広いのなんのって。イギリスは罪人を島流しにして送り込み、殖民を進め、牧畜業を開きまして。あっちからこっちからの移住者で野蛮極まりなかった国土は文明が開けた大きな街に一変したわけです。商業を営む邦人は『五戸』で、秋山さんが始めた雑貨屋が第1号となります。
雨や雪が少なく気候は温和でして、1年中が4、5月の陽気。土地は肥沃で羊毛の牧畜に適しております。オーストラリアで生活する『中人』は『四十萬戸』で、イギリスは『守長(監督官)』を置いて彼らを治めています。メルボルンと『斯督尼(シドニー)』の2つの都市は大いに賑わっております。・・・〔中略〕・・・『中人』の多くは福建・広東からの『賤民』であり、『惡衣韮食(汚い身ナリに粗末な食事)』で『賤汚(汚れしごと)』はなんだって引き受けています。
3、4年働きまして『千金(たいきん)』を手にしますと、国に返ってしまいます。それをヨシとしないイギリス人は、上陸時に先ずは『五十洋元(ポンド)』を納めさせますが、それができないヤツらは直ちに中国に追い返してしまいます」――《QED》。
