3063 “もう一つの中国”への旅(旅301)
――“もう一つの中国”への旅(旅301)
当時、新宿駅西口に押し寄せた若者の多くは饒舌を尽くした羽仁五郎の『都市の論理』などに煽られ、「反戦ソング」なんぞで声を枯らし、ジェット燃料輸送を阻止せよ!などと気勢を上げていた。騒乱状態だったのか。それとも革命前夜だったのかは不明だが、あの場に身を置いた体験を振り返ってみれば、一帯が異様に昂ぶった自己満足気味の政治的正義感、いいかえるなら軽佻浮薄で軽躁過敏な雰囲気に包まれていたことだけはたしかだ。
だが、1975年4月30日のサイゴン陥落を機にヴェトナムの南半分を国土としていたヴェトナム共和国が地上から消滅したのを機に、あれほどまでに盛り上がっていた「民族解放」論議は、我が国ではトンと聞かれなくなってしまったように記憶する。熱し易く冷め易い、あるいは健忘症といってしまえばそれまでだろうが、ヒョッとして“大勢順応型ノー天気シンドローム”と表現しておいたほうがいいのかもしれない。
ところで「大勢」の2文字で思い当たるのが、昭和29年に柳田國男が弟子筋を集めて出版した『日本人』(柳田國男編、毎日ライブラリー)である。
『日本人』の冒頭を飾る論文「日本人とは」において、柳田は「真実の日本人、つまりその民族全体というものを考えてみたいと思うと」と問題提起した後、「大勢」をキーワードに次のように綴った。やや長くなるが引用する。
「東洋には古くから大勢ということばが流行していて、一つの新しい傾向が芽ばえてくると、その価値を確かめもしないうちから遅れずについていこうとしてあせる気持ちがあった。この風潮はなかなか抜けがたいもので、おそらくは島国に住んで少なくとも二千年以上の長い歴史のうちにつちかわれた癖であろうから、国民はそれを承知の上で過去を考え、もしくは将来を計画することがどうしても必要であった。ところがそういう中にも国の外部との交流が始まってくると、現に学問の側からも政治の側からも、共通しかつ同化しようとする傾向がかなり強く、したがってそれにたち遅れる者はいっそう不安になり、自分はこれに負けぬ気になって勉強しようという気持ちよりも、むしろ大勢の先端ばかりをさがして歩く気配が多くなった。そのために人々は、いちばんすぐれた者はどこを見ているのかということばかり気にかけて、正確にそのもの自体の批判も分析も行なわれないうちに時相が次に移るというような、いわば低気圧に似た混乱が常に日本人の生活の中には漂っている」
『日本人』の初版が出版された昭和29年は、戦後政治の方向性を規定し、現在に続く自民党一党政治の基盤となった「55年体制」が誕生する昭和30(1955)年の前年に当たり、2年後の昭和31(1956)年になると、政府は序文に「もはや戦後ではない」と高らかに宣言したした『経済白書』を公表している。
こうみると、敗戦の混乱期を乗り切り、日本が新しい時代に突き進もうとする前夜に狙いを定め“戦略的”に出版されたようにも思える『日本人』だが、なぜ柳田は敢えて「むしろ大勢の先端ばかりをさがして歩く気配が多くなった」などと“苦言”を綴ったのか。あるいは柳田は、新しい時代を前にした日本人に「むしろ大勢の先端ばかりをさがして歩く」ような積年の悪癖を感じ取ったからかもしれない。この辺りに、サイゴン陥落以後の日本でヴェトナム戦争が「大勢」ではなくなっていた原因を求められそうだ。
ところで1945年に生まれ25歳でBBC特派員としてヴェトナムの戦場に降り立って以降、ジャーナリストとして歴史家として、「時相が次に移」ろうが、ヴェトナム戦争の本質を執拗に追い続けるのがM・ヘイスティングスである。彼は『ヴェトナム 壮大な悲劇 1945-1975(上下)』(白水社、2023年)で、ヴェトナム戦争とはなんであったのかを伝えようと努める。「大勢」に左右されることのない生き方には驚かされるばかり。《QED》
