3062 “もう一つの中国”への旅(旅300)
――“もう一つの中国”への旅(旅300)
ヴェトナム民族解放の英雄とされるホー・チ・ミン(漢字名で胡志明)そのまま。民族の仇敵と定めていたアメリカ帝国主義との積年の苦闘を勝利に導いた民族の英雄を讃える栄光の記念碑といわれればそうかもしれない。だが自画自賛的政治臭があまりにも強烈であり、なんらの芸も工夫も感じられない。直截が過ぎて、味気ないことこのうえないホーチミンより、「東洋のパリ」の語感が醸し出す退廃・退嬰と終末感、それにヴェトナム戦争末期の混沌と混乱を漂わせる響きを持つサイゴンの方が、都市の名前としてよほどシックリしている。これがホーチミン市街を駆け足で回ってみての第一印象だった。
漢字で「堤安」と綴り、古くからの中華街で知られるショロンの佇まいからは、「一切向銭看(万事がカネ)」の漢字5文字が醸し出すと雰囲気が存分に感じられた。この街での顛末については、すでに記しておいたので割愛しておく。
ここで改めて考えるのだが、カンボジア内戦に先行するヴェトナム戦争とは、いったい、なんだったのか。「民族解放」の厚化粧の下には、いったい、なにが隠されていたのか。全体主義が骨絡みの権力が秘めた冷徹な打算に基づいたエゴイズムではなかったか。
ヴェトナム戦争で思い出すのは、1960年代後半、予備校から大学時代の5年ほどを過ごした埼玉県の朝霞である。
当時、朝霞に置かれていた米軍の巨大な病院の近くに住んでいた。もちろん病院を含んだ広大な基地の周囲は鉄条網のフェンスで厳重にグルリと囲まれ、その内側は事実上の治外法権であり、朝霞市民の日常とは全く異質の時計で動いている異次元の世界だった。
「ベ平連」などの反戦団体が鉄条網近くに陣取って基地の内側に向かって、「南ヴェトナムの民族解放闘争を支持するぞ~!」「南ヴェトナム民族解放戦線(ヴェトコン)との連帯を!」「米兵よ、反戦闘争に立ち上がれ~!」「参戦を忌避せよ!」などと盛んに気勢をあげ、それを警察官が遠巻きに囲むなど、なんとも騒然とした雰囲気が日常化していた。
時折、日付が変る頃になるとヘリコプターのローター音が鳴り響き、窓をガタガタと震わせる。ヴェトナムの戦場で負傷した兵士を巨大なB-52で輸送し、横田基地から朝霞に移送する。翌朝になると、新聞やTVがヴェトナムの戦場で激戦を報じたものだ。
ローター音が長引くほどに横田基地から輸送する負傷兵が多いということだろうし、激戦が連想できた。もちろん戦況が米軍にとって芳しいものであろうはずがない。いわば深夜のローター音は、ヴェトナムから遙かに遠く離れた朝霞の街に戦況――アメリカにとっては“極めて不都合な真実”に違いない――を、マスコミより早くリアルタイムで教えてくれたことになる。
午後3時を過ぎる頃になると、銃を手にした米軍MPを乗せたパトカーの巡回がはじまる。夕闇が逼る頃には、東上線朝霞駅に全身がハデ目な若い女性が三々五々と集まってくる。あれほどの数はどこから湧いてくるのか。当時はもちろん、60年ほどが過ぎた現在ならなおさらに不思議としかいいようはない。ほどなく基地の方から米兵が次々にやってきて、ほどなく辺り一帯は“田村泰次郎の世界”へと変貌する。
朝霞の米軍基地周辺の住人にとって、ヴェトナム戦争は日常生活の隣にあった
これが筆者の脳裏にウッスラと残るヴェトナム戦争の記憶である。
当時は汗牛充棟と呼ぶに相応しいほどの量の関連書籍が出版され、『世界』『中央公論』『文藝春秋』『アジア』『現代』『現代の眼』などの月刊の総合雑誌、『朝日ジャーナル』を筆頭とする週刊誌、さらには新聞やTVを舞台にして、「民族解放」の4文字で厚化粧した“リベラル色”に染まった学者や言論人、それに活動家などが「民族解放無罪」といわんばかりに奇想天外な政治的正義を振りかざしては悦に入っていたっけ。《QED》
