3026 “もう一つの中国”への旅(旅266)

【知道中国 3026回】二六・七・初三

  ――“もう一つの中国”への旅(旅266)

孫文ついでといってはなんだが、「中国が最も恐れる男」といわれる垂秀夫前駐中国大使が語った『日中外交秘録 駐中国大使の闘い』(文藝春秋、2025年)を一読して驚いたことがある。

同書には共産党政権に対し、垂前大使が外交官としてどのように国益を守ったのか。その豪腕振りと数々の苦闘の跡と赫々たる実績が綴られている。これなら「中国が最も恐れる男」といわれるはずだ。おそらく誰に忖度するまでもなかっただろう。ここまで書いていいのか、と心配になる個所も少なくない。だが、それだけに日中外交に現れた彼我の手法の違い、日本側の腰が引けた対応の実態などが手に取るように記されていて興味津々だ。

ところで垂前大使は外務本省や出先公館で実務担当者として交渉に当たった際、共産党や官製メディアの将来を担うであろう中堅若手幹部(つまり頭がまだ、それほどカタイわけではないハズ)を招請し、日本社会のありのままの姿を、“共産党欽定”のイデオロギー抜きで知ってもらおうと努めたという。それはそれで、トッテもイイことだ。

日本での視察を終えた一行の送別宴を日比谷公園内の松本楼で企劃する。その場で、辛亥革命を起点とする日中友好に果した松本楼の歴史的で象徴的な意義を、孫文と彼を支援した日本人有志絡みで詳しく説明する。ここまでもイイ。だが、これからがイケない。それというのも、中国からのエリートを前にして「キミたちは将来の孫文になれ」とハッパを掛けたというのだから。しかも自信を持って、自慢げに、得々と語っている辺りに大いに問題あり、というしかない。

中国の将来を担うと期待する中堅幹部に向かって垂前中国大使は、孫文がそうであったように日本の心ある人々と手をつないで日中友好の実を挙げてくれ。真の日中友好の架け橋になってくれ、と願ったことだろう。だが、ここで注意すべきは彼らの脳内に植え付けられた孫文像と垂前大使のそれとの間には千里万里の逕庭があるということだ。

じつは孫文は最終段階で「容共連ソ」を掲げ、清朝を打倒した辛亥革命を経て建国した中華民国の命運をソ連共産党に託した。あれほどまでに支援した頭山、犬養、宮崎、梅屋など日本の支援者に背を向け、ソ連共産党との提携に救国の道を見出そうとしたのだ。

ところで孫文が打ち出した救国策である「連ソ容共」を、高校世界史教科書『詳説 世界史 世界史B』(山川出版社、2006年)は次のように解説する。

「国民党の強化をめざしていた孫文も、ソ連の援助をうけいれて顧問をまねき、24年国民党を改組して党組織の近代化をはかるとともに、共産党員が個人も資格で国民党に入党することを認めた(第一次国共合作)。彼はまた、『連ソ・容共・扶助工農』をかかげて、打倒軍閥・打倒帝国主義の路線をうち出した。孫文は25年に病死したが、同年に上海の日本人経営の紡績工場での労働争議をきっかけとしてひろがった五・三○運動は、中国における反帝国主義運動の高揚を示すものであった」

以上の経緯を踏まえたうえで孫文の行動を“肯定的”に捉えるなら、孫文は飽くまでも革命家として生きた。権謀術策家でありリアリストだった、ということだろう。それは異国の窮状を見るに見かね、義憤と友情から立ち上がった日本の支援者と明らかに異なる。

ここで考えるのだが、当時の孫文にとって最緊要な関心事は「国民党の強化」であり、強化された国民党による中華民国の再定義だっただろう。目的達成のため、孫文は日本の民間有志ではなく、あえて「ソ連の援助をうけいれ顧問をまね」いた。それが「中国における反帝国主義運動の高揚を示」し、反日のうねりへとつながって行く。

かく歴史を振り返ってみると、垂前大使が中国の将来を担うであろう中堅幹部の将来に描こうとした孫文像は、いったい、いつの頃の孫文だったのだろうか。《QED》