3025 “もう一つの中国”への旅(旅265)
【知道中国 3025回】二六・七・初一
――“もう一つの中国”への旅(旅265)
不謹慎な表現だが、やはり重油で一気にゴ~ッというより、どうやら古くから慣れ親しんできた先祖伝来の野焼きの方がシックリくるらしい。もちろん費用面の問題もあろうが。
ところで燃料が燃え尽きた後、遺骨はどうなるのか。ザウさんはアッケラカンと「頃合いを見計らって遺族は戻ってきますが、完全に灰にします」。思った通りハイそれまで、である。そういわれれば、広場のアチコチに灰色の塊がみられたが、それが、この辺りの人々にとっての死の形と納得すればいいのだろう。「少し先の山間部に行くと、早く完全に灰にするため、燃えにくい腹部に山刀を振り下ろして切り刻むこともありますヨ」と、ザウさんが自分の見聞を付け加えてくれた。
朝から3カ所でそれぞれの死の送り方を垣間見たわけだが、やはり生と死とはプツンと断ち切られたわけではなさそうだし、あるいは地続きかもしれない。葬り方(葬られ方)には生をどのように捉えているかが映し出される。素朴ながら、こう強く感じたものだ。
なぜ漢族はあそこまで遠い祖先の出自にこだわるのか。何代にも亘って異域に暮らしているにもかかわらず、飽くまでも先祖由来の「入土為安」の方式を貫こうとする背景はなんなのか。玄界灘を越えて日本に伝わってきた四書五経に対する日本式理解では、この謎がどうにも解けそうにない。やや飛躍して考えるなら、玄界灘の荒波が予想外の解毒効果を発揮し、中国古典が本来的に蔵している数々の《毒》をキレイさっぱりと洗い流してしまった。ところが本家本元の中国では《毒》を《毒》として取り扱うスベを心得ている。ヒョッとして民族的に《毒》を《薬》に変えてしまう特異体質を持っているのではないか。
それは謎。だが謎は謎のままに寝かせておけば、やがて日本人の誤解の仕組みが解けるかもしれない。それというのも彼我の間に徒に優劣を定め、闇雲に《解》を求めようとする日本人の性質(「悪癖」「宿痾」)が、数々の失敗・失策を導いてきたように思うからだ。
たとえば日清戦争講和談判の清国側代表の李鴻章だが、対外姿勢の基本を「借法自強」「籠絡之或為我用」と書き残している。つまり富強の時まで待て。辞を低く相手の思うように振る舞い、やがてひっくり返してやれ、である。であればこそ、当時、日本の子どもが「李鴻章のハゲ頭」と蔑んで口ずさむことも、あるいは想定内のことだっただろうか。
下関条約締結から80数年が過ぎた1978年末に対外開放に打って出た鄧小平が国民に向かって戒めた「韜光養晦」の4文字からは、たしかに李鴻章の「籠絡之或為我用」のニオイが感じられる。「籠絡之或為我用」はもちろんのこと、「韜光養晦」の底意に到っては、日本はもとより、欧米もまた見抜けなかった。オ気楽が老獪に勝てるワケがないだろうに。
ところで勝海舟は日清戦争勝利で沸く世間向かって、「平生からおれが支那は馬鹿にならぬと言っているのに、世間では、またあの老爺めが支那贔屓するなどと笑つて居たが、今日となつてはドーダ。李鴻章もうまく相撲を取つたではないか」「日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方なくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人は、とても支那人には及ばないだらうと思ふと、おれはひそかに心配するヨ」(『氷川清話』講談社学術文庫、2000年)と。これぞ明治人のリアリズム!
もう一例を挙げるとするなら孫文を措いて他なし。1924年11月の神戸、死を前にした孫文は頭山満との最後の会談の翌日、県立神戸高等女学校講堂において「大アジア主義講演」を行なった。だが、彼の政治生活の軌跡を素描するなら、それは孫文による孫文流の「大亞洲主義」でしかなかった。孫文が熱く唱えた「大亞洲主義」は、どう考えても当時の日本における「大アジア主義」とは似て非なるモノに近い。この講演を、やはり日本式「大アジア主義」に対する孫文なりの“訣別宣言”と捉えるべきではないか。《QED》
