3015“もう一つの中国”への旅(旅255)
【知道中国 3015回】二六・六・初八
――“もう一つの中国”への旅(旅255)
改めて緬甸臘戍明徳(五戒)学校における教育の目的を尋ねると、姜校長は国民中学『歴史』(国立編訳館)に記された「中華民族の向上、領域の変遷、政治・経済・社会・文化の発展を伝えるほか、ことに悠久の歴史と民族文化の融合を強調することによって、国家と民族を愛する情操と団結合作の精神を強化し、民族の伝統精神、国民の地位と責任を認識させる」との編集方針を指し示しながら、「ここに明示されているように、我われの責務は子供たちを立派な中華民族に育てることです」と胸を張った。
校長が手にした『歴史』は、政権を握った李登輝が台湾を大陸以来の“腐れ縁”をまとった仕組みを大々的に改変し、台湾は台湾として生きて行くことを方向づけする以前の教育方針に則って編集された教科書。共産党は共匪だ。大陸の中国はニセものだ。中華民国こそ正統中国であるとの史観で一貫している。それゆえ、当時の陳水扁政権(2000~08年)下の台湾で進められていた「台湾の本土化」、いわば台湾は台湾であり、歴史的にも文化的にも大陸とは別だ、といった考えとは相容れない。その点を質すと校長は、
「それはそうだが、飽くまでも『立派な中華民族の育成』を掲げるからには、台湾にどのような政権が生まれ、どのような政策が進められようとも、正統中国は中華民国だとの方針が貫かれている『歴史』に則って教育する。我われにとっての中国は、李登輝が主張する『台湾に在る中華民国』とは必ずしも同じというわけではありません」
このような校長の主張に拠るなら、台湾が本土化の道を歩むほどに、たとえそれが幻影であったとしても、純化された中国、いわば理念上の中国に向かっていくようにも思える。
ここで改めて考えてみた。姜校長の主張から思い至るのは、国共内戦に敗北し潰走の果てに北タイの山間辺境の地に安住の地を求めた国民党残存部隊である。タイ共産党(CPT)の武装闘争が猖獗を極めた1970年代の中頃から末期にかけ、彼らはタイ国軍に代ってCPT掃討作戦の最前線に立ち、赫々たる戦果を挙げ、その代償としてタイ国籍を取得し、法的にはタイ国民となった。国民党政権当時、台湾からの物心両面の援助があり、教育・結婚・ビジネスなど台湾との間で交流が密な交流も続いていた。だが、ここにも「台湾の本土化」の波が押し寄せる。
2003年には台湾政府の支援拠点でチェンライ(清莱)に置かれていた中華民国僑務委員会服務処が閉鎖され、1年後には半世紀にわたって彼らを物心両面で支えてきた中華災胞救助総会泰北工作団も事実上解散された。
だが彼らは依然として中国人として生きる道を択んでいる。中国語で教育する学校を経営し、中国語を話し、衛星放送で日常的に中国語番組に接し、ラシオの住民と同じように中華文化の中で日々を過ごしている。タイ北部辺境に生きる“小さな中国”なのだ。
当時、台湾は民進党政権下で本土化・脱中華民国の道を進むほどに、ラシオや北タイの山峡の“小さな中国”が、彼らの住む場所から北の方向にあり、外に向かって大きく開放され経済繁栄の道を驀進している“巨大な中国”である中華人民共和国に強い興味と関心を抱くことは当然すぎるほどに当然だろう。ましてや、その国にビジネスチャンスが転がっているのであれば。であればこそ、その点に目を付ける者がいたとしても決して不思議ではない。
それというのも、緬甸臘戍明徳(五戒)学校に向かう道すがら、「大洪山光明社」と記された建物の真っ赤な板壁に「昆明南洋(国際)学校」の、新聞紙1ページ大の「幼児、小学、初中・高中学生(華人華僑子女)募集」が気になっていたからだ。なぜラシオで昆明の国際学校なのか。その点を校長に質すと、「我が校生徒が中国で学んでもなんら不便を感じないよう、中国で使われている簡体字での教育も実施しています、が」《QED》
