3002“もう一つの中国”への旅(旅242)
【知道中国 3002回】二六・五・十
――“もう一つの中国”への旅(旅242)
それから長い年月が過ぎ1987年に。美英がカナダで生んだ馨(ウイニー)とその娘のデニスは、半世紀ほどの昔に陳三が故郷に建てた家で、デニスにとっては母親の馨の「姉の屏伯母と腹違いの弟、源叔父に初めて会」った。これも鄧小平が断行した対外開放のお陰といえるはず。対外開放は海外企業のカネとモノ(技術)を中国市場に呼び込むと同時に、海外の“同胞”と彼らの資金と技術を招き寄せた。いわば国境を越えて互いに截然と分かれていた2つの中国――中華人民共和国(中国)と“もう一つの中国”――に地殻変動をもたらし、ヒト・モノ・カネを軸にして相互交流の場を生み出したのである。
やがてデニスは太平洋を隔てたカナダと中国という2つの国の激動の時代を生きた陳一家の苦闘の歴史を綴ろうと思い立つ。
彼らは中国とは全く異質の海外社会でも飽くまでも中国人として生きようとし、生き抜く。もはや祖国は国家としての権威も機能も失い、列強のなすがまま。これが19世紀半ばから1世紀ほどの間の中国社会の実態であり、であればこそ彼らに救いの手を差し伸べる余裕も能力も意欲も生まれるワケがなかった。
だが、“現在の祖国”は違う。国家戦略の一環として「走出去(飛び出せ)」を推し進め、人びとや企業の海外進出を強く奨励する。であればこそ多くが中国を飛びだし世界の都市に押し寄せ、中国人として振る舞いを押し通し生活圏を拡大してゆく。かくて世界は生身の中国人――毛沢東流に表現するなら「メシを喰いクソを垂れる」――に初めて接し、訝しがり、戸惑い、恐れ、遠避け、身構える。それというのも、世界が彼らを知らなすぎたからに違いない。やはり裸一貫で異郷で生き抜こうとする者が『論語』や『孟子』に縛られてはいなかったことを、彼らを受け入れる側はより深刻に受け止めるべきなのだ。
閑話休題。
賽さんと別れてラシオに向かう本道に出た。この道を突き進めばラシオへ一本道である。さらにラシオからナンカン(南坎)に抜ければ畹町で国境関門を通過して中国に入ることになる。
街道の両側には果物屋、ガソリンスタンド、量り売りのガソリン屋、土産物屋、屋台のメシ屋、レストラン、ホテルなどが続くが、どこでも漢字のカンバンだ。ためしに中国語で語り掛けると、中国語で返事が返ってくる。時にザウさんが現地語で話し掛けるが、どうも返事が要領を得ないらしい。日本人が中国語で会話を成り立たせているのがよほど面白いらしく、以後は時にザウさんから通訳を仰せつかることに。かくて、これから先は時に主客転倒の珍妙な旅となった。
給油のために立ち寄ったガソリンスタンド隣の屋台で小休止していると、観光バスからお揃いのTシャツを着た30人ほどの団体が降りてきた。胸には漢字で××委員会の文字。尋ねると台湾から来た国民党支持の仏教系慈善団体で、国境方面の山間地にある集落にボランティアに向かうとのこと。当時、台湾は民進党出身で独立志向の陳水扁政権(2000~08年)であり、宗教とはいえ中国とミャンマー国境付近の漢族系住民を支援することには否定的だった。にもかかわらず、彼らは敢えてボランティアを推し進める。ミャンマー東北部の辺境で垣間見た、台湾における「統一」と「独立」の対立の一端だった。
ほどなく進行方向左に鋼鉄と御影石製の立派な門がみえてきた。その奥には手入れの行き届いた芝生の広大な敷地が広がり、日光に照らされピカピカと耀くコンクリートやガラスの建物が遠目にみえた。ミャンマー最高の軍人養成機関である国軍士官学校(DSA)だった。ザウさんによれば、米陸軍士官学校(ウエストポイント)や英国王立陸軍士官学校(サンドハースト)の位置づけで、国軍にとっての強固な権力基盤らしい。《QED》
