3001“もう一つの中国”への旅(旅241)

【知道中国 3001回】二六・五・初八

  ――“もう一つの中国”への旅(旅241)

紀元前1000年頃に漢族が居住していた「現在の中国の領域の一○パーセント程度の範囲」の「外側には、越・■・黎・壮などと呼ばれる人びとが住んでいた。これらの人びとは、政治・文化的にも、さらに民族的にも漢族とは異なっていた。中国の一角からはじまって、漢族は驚くべき活動力を示し、続く三○○○年間ひたすら外に向かって広がり、数の上でも増えた。その道筋でぶつかった他の民族の文化を吸収し続けた。この長期にわたる過程は、数千年も持続し、今日においても漢族と漢文化がチベットと新疆に広がりつつあるところから、この過程が今も進行していることが裏づけられる」(『中国の社会』ロイド・E・イーストマン、平凡社、1994年/なお■は余の下に田。音は「ショ」)のである。

つまり残る90%の範囲に住んでいた「越・■・黎・壮などと呼ばれる人びと」を漢化(文化的強制同化?)することで、漢族の生活空間は「ひたすら外に向かって広がり」、中国世界は拡大していった。賽一族も、毛一族も、朱一族も同じように「驚くべき活動力を示し」ながら、ひたすら生活空間を広げる。その先に海外があったということになる。

かくて華僑・華人研究の第一人者の陳碧笙『世界華僑華人簡史』(厦門大学出版社、1991年)が説くように、「(華僑・華人という現象は)歴史的にも現状からしても、中華民族の海外への大移動にある。北から南へ、大陸から海洋へ、経済水準の低いところから高いところへと、南宋から現代まで移動は停止することはなかった。時代を重ねるごとに数を増し、今後はさらに止むことなく移動は続く」。これを中国世界拡大の基本的なメカニズムと見なすべきではないか。

「海洋へ」の典型例を、広東の農村地帯から北米太平洋岸に移っていった一族の姿を描いた『チャイナタウンの女』(デニス・チョン、文春文庫、1998年)にみておきたい。

1909年に西太后が没したことをキッカケに清朝に黄昏が迫り、帝国のタガは完全に外れ、急坂を転げ落ちるように崩壊に向かう。1911年、孫文を指導者に担ぐ革命派は辛亥革命を起こして清朝支配に止めを刺した。だが、それだけで世の中が一新されるほど中国の封建社会の仕組みは単純でもなくヤワでもない。たとえるならキメラでありゾンビだ。

中央政権は名存実亡。軍閥や地主などが各地に跋扈する。軍閥は外国勢力と手を結び、地主は既得権益を堅持し生き延びんがために私兵を養い、金持ちは高い塀を廻らせた豪壮な屋敷に立てこもり、互いに時に手を結び時に裏切り、殺し尽くし、奪い尽くし、そして焼き尽くし。かくて混迷は増すばかり――これが建国初期の中華民国の偽らざる姿だった。

そんな時代である。貧乏人にできることといえば、顔を顰め時代を恨みながら運命に身を委ねるか、自分の肉体と度胸と才覚を武器に故郷を飛びだして一旗挙げるか・・・。

広東の田舎に生まれた陳三は、父親に倣って「国を出て飢えと希望のうずきをいやし、祖国で失われた安定を求め」て北米に渡る。当時、行き着いて働きさえすれば大金を手に入れることができると無邪気にも信じ込んでいた広東人は、アメリカをカネの山と思い込み「金山(カムサン)」と呼んで憧れた。

「故郷に錦を飾りな」と父親の親戚筋の老婦が餞別代りに貸してくれた700ドルを元手に、「一生懸命働いて銭ためて、家の入用分を賄えるだけの仕送りをするでよ」と妻の杏宝にいい含め、陳三はカムサンを目指し故郷を後にする。

苦労に苦労を重ねた陳三は、念願かなって「衣錦還郷(故郷に錦を飾る)」。跡継ぎ息子が欲しくなった彼は、故郷で第二夫人の梁美英を娶る。「待望の息子を中国ではなく、カナダで生むことにした」彼女は身重の体でカナダに。だが期待に違えて生まれた子どもは娘。故郷に戻ろうとする傷心の陳三を前に、美英は「子供はこちらに残し、あんた一人で帰ったら、としぶった」。その日から、美英母娘のカナダでの悪戦苦闘が始まる。《QED》