3000“もう一つの中国”への旅(旅240)

【知道中国 3000回】二六・五・初六

  ――“もう一つの中国”への旅(旅240)

共産党による土地改革、つまり地主階層撲滅の実態はもとより、福地の語る共産党に煽られて妄動する零細農民の残忍卑劣な姿も興味深い。だが、ここでは人口構成部分のみに注目して引用する。なお引用文中の「この辺」は四川省東北端に位置する達県を指す。

「次にこの辺の概況についてお話しします。詳しくは存じませんが、四川省の人達は百年から二百年ぐらい前に、他の省から新しく植民してきた人達が多く、その辺の墓碑にいちいちその出身省が書いてあるのが目につきました。私の家の祖先の墓にも、清朝時代の楚の国(いまの湖北、湖南)から蜀の国(いまの四川)に入ったと書いてありました。清朝時代には政府がさかんに官吏を派遣してきたので、成都あたりには、北京から移住した人が多いということです。そのせいでしょうか、成都の言葉は北京語と殆どわからないくらい似ています。成都は第二の北京とか小さな北京とか呼ばれておりまして、ほんとに住民も穏やかで、上品で、おしゃべりで、北京の人と似たところがありました」

じつは17世紀中葉に当たる明末清初に四川省へ流入した人びとの原籍は、湖北、湖南、広東、広西、福建、陝西、江西、貴州、安徽、江蘇、浙江、河南、山東、山西、甘粛、寧夏、直隷、内蒙古など。つまり四川省は広域からの流入人口で構成されているわけだ。

いわば中国人の坩堝のような四川に、1930年代末期以降、主として北京、天津、上海、南京などの都市部とその周辺から、日本軍の攻撃を避け700万人前後が政府機関、大学などと共に移動している。その多くは原籍に戻ることなく四川に留まったとされる。

こうみると、四川は福地のように「小さな北京」と呼ぶよりも、むしろ小さな中国と形容してもいいくらいだ。

これに付け加えるなら文革初期、「若者は農村に出向いて農民から直に学べ」との毛沢東に呼び掛けに応じ、勇躍として農山村に出向いていった若者も少なくなかった。「下放」と呼ばれる都市の知識青年(知青)を主体とした運動だが、文革後も都市に戻ることなく農山村に定着する者も少なくなかった。どうやら「下放」は実態的には若年層の都市住民の農山村への政策的移住であり、むしろ文革版「遷徙」と見なすべきではないか。

「闖関東」、つまり関東(旧満州)への人口の大量流入例も挙げておきたい。

「(曾祖父が河南省から)大連をめざした最大の理由は時代の流れだった。

 

彼が生きた清朝の末期、東北地方では『闖関東』という潮流が巻き起こっていた。

この『闖関東』というのは、遼寧省、吉林省、黒龍江省の東北三省に生計の道を求め、移民する流れだった。もともと、東北三省には人口が少なかったため、南の河南省や山東省から多くの移民たちが東北をめざし、彼らが開拓の基礎を築いたのである。

こうして、遼寧省にも多くの貧しい移民たちがやってきた。その結果、いまでも、この省の人口の六○パーセントは他省移民だとされ、彼らが土地の人びとと混血をくり返してきた」(『趙家』チャオ・ウェイニー、双葉社、1998年)

一族の移動・移住に関する回想は無数にあるが、ここまでの例からも、メーミョーで偶然に出会った賽さんの一族だけが特別ではないことに気づくはず。このような漢族の真実の姿を見過ごしたまま、「一衣帯水」「同文同種」の民などと“親近感”で対応してきてしまったのが、じつは日本人なのだ。敵を知らなかったら、戦になるわけがないだろうに。

こういった移動という“習性”をどのように捉えればいいのか。そこで次を引用する。

「多くの中国に住んでいる少数民族と区別される漢族は、中国西北部の黄土高原で、先史時代の霞のなかから現れる。黄土高原は、黄河が大きく屈曲しているところに位置し、現在の西安の近くに広がっている。紀元前一○○○年には、漢族は現在の中国の領域の一○パーセント程度の範囲に住んでいた」。ならば残る90%の土地の住人は誰?《QED》