2999“もう一つの中国”への旅(旅239)

【知道中国 2999回】二六・五・初四

  ――“もう一つの中国”への旅(旅239)

じつは世代をつないだ長い旅路は賽一族だけが経てきた特殊な体験ではない。まさにドコでも誰でも、である。

たとえば毛沢東。彼の生涯を「2100千字」という気の遠くなるような字数で詳細に綴った『東方巨人 毛沢東』(李捷・于俊道主編、解放軍出版社、1996年)の劈頭を飾る「一、韶山少年」によれば、一族の原籍は江西吉州龍城で、明末元初(1340~70年)の頃に混乱を避けるため始祖・太華公は一族を率い雲南瀾滄(現在の雲南省瀾滄拉■族自治県内。■=ネ+古)に移った。1380年に軍功を立てたことから官に取り立てられ湖南省に移り、以後、同省内各地に移り住み、父親の毛貽昌は韶山山南岸に葬られた。毛沢東は始祖から数えて20世代目になる。つまり毛一族は江西吉州龍城を発し雲南瀾滄を経て20世代500年ほどで韶山に辿り着いたことになる。

次は毛沢東と共に初期の共産党の軍事部門を指揮し、「人民解放軍の父」と呼ばれる朱徳である。

彼の評伝『偉大なる道 ――朱徳の生涯とその時代――(上下)』(アグネス・スメドレー、岩波文庫、1988年)の冒頭には、こう記されている。

「朱家は、数多い『客戸』の一つだった。ということは、彼らは他地方から移住してきたのであり、まだ八代とは経ってはおらず、従ってはえぬきの人または郷土創建の家系――と見られる権利は獲得していなかった。朱の族の最初の一団は、白蓮教の大叛乱の直後、つまり十八世紀の初めかに、はるか南の広東省からやってきた。その叛乱と満州朝による制圧とが、この地方の人口を希薄にしたので、広東省の貧農たちが流れ込んできて『客戸』となった。朱の家はもはやは八十年も四川に住んでいるが、まだ広東語を使い、広東の習俗を保っていた。やっと朱徳たちの代になって、広東と四川の両方言をあやつるようになった」

ところで朱徳が綴った母親の思いでは教科書『九年義務教育三年生初級中学校教科書 語文 第五冊』(北京師範大学附属実験中学、北京死教育局教学研究部編著、北京出版社、開明出版社、1996年)に収められているが、それには、こう記されている。

「私の家は小作人だった。原籍は広東の韶関で客籍人だった。清朝中期、湖南・湖北の人が四川に遷徙させられた時、四川の儀隴県馬鞍荘に移った。代々地主のために働き生活は劣悪だった。仲間はみんな実直な貧乏農民だった」

ここで若干の説明をしておくと、一般には村落全体、または一族全部がある地方に移住し、そこに定着した人が「客籍人」で、依然として原籍の方言や生活習慣を保っている。客籍とは原籍に対照させた呼び方である。

明代末期から清代初期にかけ、四川は長い戦乱を経験したことで人口が減少してしまう。そこで近隣の湖北・湖南などから多くの住民が強制移住される。これを「遷徙」と呼び、このような政策的移住を「湖広填四川(湖広、四川を填める)と表現した。

「広東の韶関で客籍人だった」ことだから、朱一族のルーツは韶関ではない。どこかから韶関に移り、広東の方言やら生活様式を身につけた。やがて四川儀隴県馬鞍荘に移り、「八十年も四川に住」むに及んで四川の方言と生活習慣に慣れ親んだことで、四川・広東の両方言のバイリンガルとなったわけだ。

 

ここで20世紀前半の四川省における人口構成に関する興味深い記録『私は中国の地主だった』(福地いま、岩波新書、昭和29年)を紹介しておきたい。福地は東京に留学中の中国の地主一族の若旦那と結婚し四川に渡り、共産党による「土地改革」、つまり徹底した地主階層撲滅の一部始終を実体験している。まさに稀有な体験である。《QED》