“3065 もう一つの中国”への旅(旅303)

【知道中国 3065回】                      二六・九・念二

  ――“もう一つの中国”への旅(旅303)

じつは「ハノイの共産党は、腐敗し、しかるべき能力に乏しい官僚機構と野蛮な治安組織に権力を集中させていた。彼らは最高の住宅、最も豊かな農場、闇で手に入れる贅沢品の接収に血眼になっていた」「あらゆるランクの共産主義者が個人の住宅に入り込み、気に入ったものがあると、そのまま持ち去った。北の人間は南の人間を、とくに打倒された政権の追従者というレッテルを貼れる人間を、一種の金づる、勝利品を奪える対象と見なした」の辺りまで読み進んで、韓瑞穂の『異境――私が生き抜いた中国』(韓瑞穂、新潮社、1999年)がフト頭に浮かんできた。

著者の韓瑞穂は1922年に東京で生まれた生粋の日本人だが、1943年に東京で中国人留学生である韓さんと結婚し中国国籍を取得して韓という姓に。やがて帰国する夫と共に日本を離れた。

北京での生活環境は、彼女のそれまでの人生ではまったく考えられなかった。豪壮な構えの夫の実家は、じつは共産党の秘密連絡所でもあったのだ。となれば党員が日々出入りする。気がつけば彼女も、生真面目な活動家である夫に従って極く当たり前のように共産党を支援する活動にのめり込む。

 

1946年半ばから49年秋まで続いた国共内戦の間、彼女は軍医として八路軍と共に各地を転戦する。大躍進政策がはじまった1958年には大学で日本語を教えはじめた。1963年になると、文革の前奏曲といえる社会主義教育運動に参加して河北省北部の僻村に送り込まれ極貧生活を味わう。

やがて文革となるわけだが、お定まりのコース――日本人であれば日本帝国主義のスパイであるはずとの容疑で投獄され屈辱と苦難を経験するが、文革終焉後は名誉回復――を経て医師に復職する。この本を執筆した当時は北京国際関係学院教授として日本文学を担当していた。やがて厳格な審査に合格したことで、彼女は晴れて共産党に入党する。

 

まさに「数奇な運命」としか形容しようのない人生を歩いてきた韓瑞穂だが、この本で自らの波乱万丈の生き様を自慢げに語るわけでも、彼女が「生き抜いた中国」への恨み言をぶちまけようとするわけでも、自らの立場を守るために歯の浮いたような共産党賛歌を唱いあげようというわけでも、ましてや安っぽい日中友好を語ろうとしたわけでもない。

 

彼女は波乱万丈で凄まじいまでの自らの人生を縦糸に、彼女が苦難多き日々を共にした数限りない中国庶民や残留日本人のありのままの姿を横糸にして、彼女が「生き抜いた中国」の実像を語ろうとする。いわば、この本は庶民が語り、庶民の日常生活の視線から描かれた中華人民共和国史ともいえるだろう。

 

であればこそ「権力に従順で、それを疑ることのない人たち」が「解放の喜びに浸っている」時間は短かったと振り返り、「長期の革命闘争と戦争で多くの犠牲を払ってきた老幹部ほど、その代価を受けるのは当然という風潮が強くなる」と、老幹部が体現する革命にとっての“不都合な真実”を明らかしに、共産党の体質に「異」を唱える。

 

建国から2年後の1951年には、早くも党・政府・軍幹部の腐敗を糾弾するための激しい政治運動がはじまっている。以後、自由化を掲げた「百花斉放・百家争鳴運動」(1956年)、「反右派闘争」(1957年)、「社会主義教育運動」(1963年)、「文化大革命」(1966年~76年)と全土を巻き込んで激越な政治運動が起こっているが、それらの起爆剤となり原動力となったのは、やはり当たり前のように特権を享受する幹部に対する、民衆の喩えようのなく激しい怨嗟の念だった。だが一方で民衆は「新しい環境に適応するのは早い」と、その変わり身の早さ、環境順応能力の高さに感嘆の声を挙げながら、韓瑞穂は「伝統なのか生活の知恵なのか。きっとその両方だろう」と呟いてもいる。《QED》