3018“もう一つの中国”への旅(旅258)
【知道中国 3018回】二六・六・仲五
――“もう一つの中国”への旅(旅258)
そこで頭に浮かんだのが、四川や重慶からカンボジアへの途中に位置するラオスの首都・ヴィエンチャンにおける経験だった。2001年2月のことだ。当時のラオスは貧しく、大蔵省とはいえ貧弱な3階建て程度の小さな建物。裏手には水牛が農耕に精だす水田が広がり、遙か向こうには国会議事堂が見えるなど、じつに牧歌的な雰囲気が漂っていた。だが未舗装の道路を走る四川ナンバーのトラックからは、中国の存在が感じられた。
メコン川の川岸に建つ中華レストランに入ると、なにやらヴィエンチャンの中華レストランの味とは違う。厨房に入れてもらって調理人と話をすると、ヴィエンチャンの華人の話し方とは違う。そこで聞いてみると、思った通り四川からの出稼ぎだった。
2000年に新設された中国物産センターに行ってみた。今では考えられないようなダサいデザインの中国製日用雑貨が所狭しと並べられている。センターの裏手に回ると四川料理の屋台が数軒。ヴィエンチャン在住の華人とはどことなく違った雰囲気のおばちゃんが仕込みに精を出している。「どこから来たの」と尋ねると、四川から1人当たり1000元の運賃で一家を挙げてやって来て、家族全員で屋台を始めた。「サイコーの四川料理だよ!」。というわけでラオスの友人を誘って晩飯を食べに。
何軒かの屋台の客は総勢で30人ほど。会話はもちろん中国語。「サイコーの四川料理」を何品か注文したが、「サイコー」とは程遠い。どれもトビッキリ辛く、そのうえに塩っ気が強烈で、ビールをガンガン飲まないとノドを通りそうにない。香港や上海で食べる洗練された四川料理とは雲泥の差。四川の田舎町の“本場”の四川料理とは、ヒョッとしてこういった野趣溢れる味なのだろう。おそらく一般にイメージされている四川料理は、先ずは上海の四川飯店辺りで都会風に改良に改良を重ねたすえに創り出されたに違いない。
どうやら中国物産センターの裏辺りはラオスの首都の一角ではなく、出稼ぎにやってきた四川人の生活の場であり、彼らが作り始めた中華街の“卵”といったところ。おそらくこうやって中華街が生まれ、やがて「漢族の熱帯への進軍」のための拠点となるのだろう。例のおばちゃんは大声で「来月からメコン川の自由航行が始まるよ!」
ここで考えた。中華街は、なぜ生まれ、どのような手順で形作られるのか。
20世紀前半のタイの華僑社会リーダーで蔣介石政権支援の立場から抗日運動を展開した蟻光炎(1879~1939年)の生涯を描いた『蟻光炎伝』(蟻錦中、世界華人企業家伝記編輯委員会・北京、1995年)に、こんな記述がある。
「当時(19世紀末から20世紀初)、国内で生活に苦しむ人々が海外に出稼ぎにするに当たっては、地域性があった。山東人は日本や朝鮮へ。浙江人はヨーロッパへ。福建人はアメリカへ。広州の珠紅デルタ一帯の人々は南洋、アメリカへ。そして潮州一帯からはシャムや安南へ。それというのも初めての異国である。学問もなければ言葉も通じず、不慣れな土地なら職探しは至難であり、数日もたたずに生きてはいけなくなる。そこで頼れる知り合いがいる土地に向かうことになる。知り合いがいれば、なにはともあれ当面は食べるメシも住む場所もなんとかなる。一段落した後で職探しをすればいい。
当時、この地域カンボジアのトンレサップ湖で漁業権を獲得することはカネのなる木を手にしたも同じだった。以来、蟻大玉が捕まえた大量の魚は絶え間なく市場に供給され、さらには干し魚や塩漬けに加工され外国への輸出に回された。数年ならずして彼は大金持ちとなり、この漁業区で指折りの親方となった。かくて蟻大玉親方を頼ってやってくる同郷の数は増える一方だった」
蟻の故郷である潮州でもそうであるように、中国では基本的に同郷と同姓は重なる。かくて同郷=同姓が故郷から仲間を呼び寄せ、中華街の基本形を形作るのだろう。《QED》
