【知道中国 433回】一〇・八・仲七
――延辺での文革は朝鮮族抹殺が目的だった・・・とか
『延辺文化大革命』(柳銀珪 図書出版土香 2010年)
韓国で出版されたこの本は、かつて間島と呼ばれた延辺の朝鮮族自治州における文化大革命を記録した写真集である。だから『延辺文化大革命』。頁を繰るごとに目に飛び込んでくる写真はモノクロながら、一枚一枚が緊張感と臨場感に溢れている。それだけに延辺での文革の惨状を、40数年の時の隔たりを感じさせないほどの迫力で読者に訴えかける。
延辺大学芸術学院美術系で教授を務める韓国人写真家の著者は、延辺朝鮮族自治州における朝鮮族の暮らしぶりを写真に収め、古い写真を集め、朝鮮族の歴史を掘り起こそうとしているが、その作業の過程で、ある朝鮮族写真家と知り合う。じつは朝鮮族が味わった「紅色恐怖」の実態を写し撮った膨大なフィルムを隠し持っていた彼は著者に対し、「私が死ぬまで発表するな」と。その時から10年。著者は「10年の約束」のサブタイトルを持つ写真集を出版することで、その朝鮮族写真家との約束を果たしたのだ。
延辺での文革は毛沢東の甥で四人組、わけても江青と近かった毛遠新がリードしたことで、民族浄化の色合いがより先鋭化され、それだけに残酷さを増すことになった。そんな毛遠新の“策動”を可能にしたのは、漢民族と朝鮮族との間の埋めようもない相互不信感だったというのが、著者の主張だ。満洲国時代は漢民族の監視役となって働き、中国共産党と共に抗日ゲリラ戦を展開したのは朝鮮の独立のためであり、中国のためではなかった。漢民族にとって朝鮮族は招かれざる移住民でしかない――これが朝鮮族に対する漢民族の一般的な見方だそうだ。これに対し、優秀である朝鮮族が志願して共に戦ったからこそ中国の解放は達成されたわけであり、その優秀さゆえに、中国政府は百万人程度の少数ながら自治州を用意せざるをえなかった――朝鮮族は、こんなプライドの持ち主だとか。
まあ、どっちもどっち、といったところ。だが、互いに相反する潜在意識を持っている以上、憎悪が憎悪を招き、膨らませ、憎しみの赴くままに行動が過激に奔ってしまうのは致し方のないことだろう。
延辺での文革は、他地域からオルグにやってきた文革派学生に火を点けられた延辺大学の学生らが、1966年8月27日に「827紅色革命反乱団」を成立させたところからはじまった。これを制圧すべく朝鮮族を中心とする「紅旗戦闘聯軍」が結成され、この組織から分離した朝鮮族によって朝鮮族自治州州長支持の旗を掲げた「労働者革命委員会」が生まれる。これに対し毛遠新は827紅色革命反乱団メンバーを中心にした「紅色造反革命委員会」を組織し、「朝鮮族は信じられない」「朝鮮族の学生は朝鮮語を学習する必要はない」「朝鮮語の寿命は長くて10年か15年だ」と嘯き、武闘の指揮を執った。
民族浄化を目的とする過激な行動、凄惨な現場、残酷な被害情況、毛沢東への限りなき忠誠、「東北の太上皇」の別名で呼ばれた毛遠新に対する一部朝鮮族幹部の忠勤ぶり、両民族のとってつけたような友好シーンなど、どの写真も、ありのままの朝鮮族の姿を浮かび上がらせていて興味は尽きない。だが、1枚だけといわれたら、やはり多くの武闘被害者を真正面から捉えた写真を挙げたい。無言の彼らは寂しげにレンズを眺める。添えられたキャプションには、「延吉市を血で染め、豆満江を渡って故郷へ帰ろう」。だが、かりに「豆満江を渡って故郷へ帰」っても、しょせん去るも地獄、残るも地獄でしかなかった。 《QED》