【知道中国 423回】                                                  一〇・七・三〇

    ――日本のアジア外交は後退、後退、また後退なのか

  『外交官の一生』(石射猪太郎 中公文庫 昭和61年)

 著者は明治20(1889)年に福島県に生まれている。上海にあった東亜同文書院(五期生。在学は明治38年から41年)卒業後、「就職難に追い詰め」られて外交官の道に。

 昭和6(1931)年の満州事変勃発時は吉林総領事、翌年の上海事変後に上海総領事を経てシャム(現在のタイ)公使。昭和12(1937)年に本省に戻り東亜局長に。就任直後の7月7日に盧溝橋事件勃発。翌13(1938)年の近衛改造内閣で広田に代わり宇垣陸軍大将が外相に就任するや、「今後の事変対策についての考察」と題する長文の意見書を提出し、軍事力を排し忍耐強い外交交渉によって日本軍の漢口占領前に日中平和を実現すべきと主張している。

 だが石射の献策は退けられ戦線は拡大の一途。陸軍は興亜院を設立し陸軍主導で一元化されたアジア外交推進を打ち出す。これに対し石射は堀内外務次官と共に外務省を外した二重外交が日本外交の手足を縛る有害無益な策だと頑強に反対する。だが、閣議は陸軍の意向に沿って興亜院設立を決定。かくて石射は堀内と共に辞表を提出する
こととなる。以後、石射はオランダ公使、ブラジル大使を経てビルマ大使として敗戦を迎えた。

 であればこそ、外務省入省から説き起こされ「霞ヶ関正統外交の没落」で終わる文庫本500頁余のこの本には、戦前の日本のアジア外交の第一線を必死で歩いた彼の人生が見事なまでに描き出されていて興味は尽きないが、そのなかの2つほどを記しておきたい。

 シャム公使時代、「日本からの文化親善の呼びかけには、シャム側もつとめて受け立ってくれた」。そこで東京の国際文化振興会から派遣された「東京某大学S教授」が講演することになったが、彼は断固として英語での講演を主張。「S教授は大満悦」でシャムの外務次官陪席のなかで「専門学校の学生群」を相手にしゃべりまくっ
た。講演後、外務次官は「あの英語は難解だった」と。かくて「私はS教授来講は失敗だったことを本省に報告し、文化親善のために学者を海外に出すなら、もっと本気に人選してほしい。シャムを甘く見て下さるなと強く付言した」のだ。

 「シャムで本国を見ていると、いうところの日本・シャム親善の裏にひそむ醜悪な思い上がりが目立った」。その一例としてシャム入りした経済使節団団長が「シャムを糞味噌にこきおろした。そしてその揚句に、『では、シャムなんて国は人類の住むべきところではないですね』。『シャム人は動物が人間の形に変わったものです』。」と対談で語り、それをそのまま世間で知られた雑誌が掲載したというのだ。

 「南京占領後、わが軍の手に入った日本人名録なるものが、私の手許に回覧されてきた。中国外交部の編纂にかかり、最密件(極秘の意)と銘が打ってあった。日本各界の要人数百人にわたりいちいち経歴を記し、人物評価を施したもので、一見津々と興味をそそる」。「全編誹謗の文字はほとんどなく、いずれもその人物の美点長所が挙げられていたが、例外が二人」。土肥原陸軍少将と須磨総領事で、公刊された彼らの言動から2人の「対華強硬態度を非難し・・・中国に対する非礼暴言、概ねかくのごとしと注してあった。/また人物描写は、なかなか細かく穿ったものがあった」。外
務省作成の類書より優れていた、とか。

 アジア外交への冷めた熱情が行間に迸る。石射存命なら、腰の定まらぬ霞が関の後輩たちに向け同文書院寮歌を聞かせるだろうか。「天籟声あり汝立ちて東亜の光輝かせ」  《QED》