【知道中国 416回】                                                   一〇・七・仲三

その昔、「日本人民解放連盟」という卑怯者の集団があったそうだ

『日僑秘録  中共國賓の手記』(川口忠篤 太陽少年社 昭和二十八年)

 日本が敗れたあの日、著者は「こうなってくると、日本の居留民は、素手で中國側と對決するより術がない。しかし、今日まで、一圖に日本の勝利を盲信して、自分達を永遠なる中國の支配者だと思い込み、その儚ない自惚れの上に、偸安の夢を貪つてきた日本人と、有史以來、打ち續く、天地人の三災と、裸一貫で取り組んで、逞しく生き抜いて來た中國人が、いま戰い勝つた彼らの國土で、攻守ところを代えて、對決するのだから、その歸結は、まさに知るべきのみである」との思いを抱く。

 この本には、その日から「晋察冀邊區日本人會長、在華日人技術者同盟總裁として、國賓待遇のまゝで、四ケ月間を幽閉されていた“赤い牢獄”から突然釋放された」1946年5月1日を経て、「昭和二十一年五月十九日の太陽」を渤海湾に浮かぶ帰還船の上から「歸國委員長」として「千二百名の同胞」と共に眺めた時までの、悪戦苦闘が綴られている。

 日本が敗れたその日から、「どこにも、昨日までの昂然たる日本人の姿はなかつた」。じつは「終戰當時、華北にあつて日本軍と對峙していた中國軍は、全部、共産軍であった」ことから、「中共地區在住日本人」は「深刻甚烈な民族的體驗を」を覚悟せざるをえなかった。そこで著者は「晋察冀邊區日本人會」を組織し会長として華北一帯に残された日本人の生命財産の保護に努める一方、「中國側の要請によつて、在華日人技術者同盟を結成、その總裁に就任し、二十年九月、中共代表と“西山協定”を結んで、獨自の理念による中共協力を展開」する。その柱が、華北一帯に残された日本人医師や技術者を糾合して在華日人技術者同盟を結成し、高度の医療や工業技術を提供することだった。

 そこに「特に(中共下部の)日共の指導下にあった、日本人民解放連盟」が登場する。元敗残兵でしかなく、同胞が必死に戦っている間に中共から洗脳教育を受けた彼らを、著者は「中共軍を解放軍と稱譛して、そのもとで働く彼らを解放戰士と(自ら)呼號する」「祖國喪失者」であり、「その敎養は概ね低く、品性は卑しく、特に長年にわたる捕虜生活の卑屈さが、骨の髄までしみ込んでいて、どうにも人間として相許せぬ連中が多かった」と評する。彼らは“勝利者ズラ”をして振る舞い、“中共の威”を借りて弱い立場の日本人に対する生殺与奪の権を握った。その横暴に、敗戦国民たる日本人は泣き寝入りするしかない。

 著者は「晋察冀邊區日本人會長、在華日人技術者同盟總裁として」彼らと深刻に対立した結果、「遂に彼らの讒訴をうけ、同志、門人五十四名と共に逮捕監禁の厄に遭」ったが、やがて「北京軍事調處執行部(國府、中共、米國の調停機關)の斡旋によって被釋され、直ちに」天津から帰国する。理不尽で傲慢な日本人民解放連盟の面々を、帰国直前や祖国への船上で徹底的に糾弾し、死なない程度に殴り痛めつけ積もり積もった恨みを晴らす。

 著者は幸徳秋水の影響を受けるが後に「皇道學を創唱」し、「大東亞戰爭勃發後は、軍の推輓によって、北京に川口機關を創立、主として亞細亞第三勢力の結成による、日華單獨講和と和平統一工作に専念」し、昭和22年には公職追放処分を受け、「二十五年、臺灣義勇軍事件に連座し、その責任者として法廷に立」ち、以後は「同志と締盟して、亞細亞人による亞細亞解放を提唱」したという。著者のその後はともかく、敗戦という未曾有の極限状態に在って、日本人として如何に処すべきか。深刻に考えさせられる本だ。  《QED》