【知道中国 411回】                 一〇・七・初ニ

――かけがえのない文化資産は火災と共に消えてしまった

『支那民俗誌』(永尾龍造 国書刊行会 昭和四十八年:復刻)


 「日支兩國は遠く神代の古より物類は交換され、文化は交流し、兩者不可離の關係に在つたことは、歴史の證明する所である」が、「相互に諒解するところ鮮く、今日尚相互の眞相を知悉するに苦しむ點が少なくない。特に習俗に關するの如きは其の尤もなるものである。我、彼の風俗を知らず、彼亦我の習慣を知らざるが爲に、互いに蔑視し、憎惡し、相排斥し來つて、過去半世紀間に於ける相互の關係の如きは、全く糾葛の連續であつたと言ふも過言ではあるまい。それには種々の原因もあつた」。確かに「思想や學問の上には相當の認識は持つてゐたが、相互間の習風民俗の點に至つては、甚だしく理解を缺いてゐたといふところに思ひ掛けぬ重大な認識不足があ」った。この相互認識不足を「溝渠」とする。

 そこで昭和15年、その「溝渠」を埋めようと外務省の肝いりで支那民俗誌刊行会が組織され、支那民俗誌全13巻(全12巻+索引1巻)の刊行が始まる。その内容は「支那民族の重要分子たる漢満蒙各民族並に回教徒の習俗の大體を知るに足るべき項目を選出し」たものであり、「これ等各民族の冠婚葬祭を始め年中行事等主なる題目とし、且これら題目と密接な關係を持つ特殊問題若干を之に配し、依つて以て彼等各民族が如何に生活し、如何に其の一生を送るかを如實に知ること」ができる――というのが編集の大方針だ。

 編著者の「永尾君は、多年南満洲鉄道株式會社に奉職し、後満洲國の建國と共に同國官吏となり、其の間心を支那民俗の研究に致し、多年の間に數萬枚の稿を積」んだとのこと。文章から判断して、著者は彼の民族に親しんだ徳実温厚な人物と思われる。

 本書には著者がコツコツと足で集めた数多くの資料がカラーやモノクロ写真で収められており、今みても当時の「漢満蒙各民族並に回教徒」の日々のありふれた日常生活が偲ばれ、じつに楽しく微笑ましい気分になると同時に、時に想像の壁を超え理解不可能な彼らの風俗に驚き、慄くことも少なくない。日中は同文でも同種でも、絶対にありえない。

 たとえば「小児の屍體を虐待すること」の章だが、「子供の靈魂を奪つて死に致すといはれる鬼等は、一度子供の生命を奪ふことに成功すると、それに味を占めて、再度三度とつぎつぎに來襲する恐れがあるから、それを防ぐために、死んだ子の遺骸に宿つてゐる鬼魔を威嚇する意味を以て行ふものである」。

 さて「威嚇」のための方法だが、「屍體を野外に放棄する位はまだ結構な方で、甚だしいのになると、刃物の類を以て切り苛み、或は四肢ち斷ち、或は頭から顔面に掛けて、一寸刻みに刻んだものもある。また燒火箸や燒鏝を以て體中を燒き、顔面の如きを眞黑焦げになつてゐるものさへある」そうだ。「野外に放棄」された死体の中には「野犬のあさるが儘に曝されてある」ものも見られ、これでも「結構な方」ということだから、後は推して知るべし。残酷極まりないということだが、それもこれも次に健康な子供を授かろうという強い意志の表れと考えて間違いなさそうだ。

 子供を失った両親の苦しみや悲しみは古今東西・万国共通だろう。だが死んだ子供を無慈悲にも傷つけはしまい。もっとも最近の日本には不届き千万な鬼畜・人非人がいるが・・・。

 暖かく鋭い視点で中国庶民の生活を観察した著者の成果が結実していたなら、日本人も、もう少し真正面から漢民族を理解できただろう。だが昭和17年1月、外務省で火災が発生。「今後續刊すべき・・・原稿も、悉く烏有に歸した」。返すがえすも無念なことだ。  《QED》