【知道中国 1099回】 一四・七・仲三
――「犯罪人の数は年ごとに少なくなり、監獄でも監房が空いてくる・・・」(仁井田1)
「中国の旅」(仁井田陞 『東洋とはなにか』東大出版会 1968年)
東京大学法学部教授で中国法制史研究の世界的権威として知られた仁井田陞(明治37=1904年~昭和41=1966年)は、「一九五九〔昭和三四〕年八月(七日)から九月(四日)にかけて、中国政治法律学会の招待をうけ、中国訪問日本法律家代表団の一員として中国を訪れ」た。野上の延安旅行から2年ほどの後であった。
野上の「延安紀行」が57年晩秋で、仁井田の「中国の旅」は59年晩夏から初秋。この2年ほどの間の中国社会の変容を概観しておくこともまた、仁井田が野上と同じように招待者側の自動筆記装置に終始した東大教授でしかなく、節穴の目の持った中国法制史研究の世界的権威でしかなかったことを知るうえでは必要なことであろう。
仁井田訪問時の中国は、前年5月に毛沢東が現実を無視して強引に発動した「社会主義建設総路線」政策による農村の人民公社化と大躍進政策の大失敗によって、全土は飢餓地獄に陥り、餓死が日常化していた。
仁井田訪中直前の59年7月2日から1ヶ月半ほどの間、景勝地の廬山に共産党幹部が呼び集められた。既に破綻のみえはじめた社会主義建設総路線に関する考え方を統一しておく必要に逼られたからだ。いうならば、たとえ綻びが見え始めたとはいえ、毛沢東の考えに楯突くな、というわけだ。だが、こともあろうに毛沢東に重用され猛将として知られた国防部長の彭徳懐が、「人民公社は始めるのが早すぎた」とか、「民主主義の欠乏、個人崇拝こそが、すべての弊害の根源である」と発言し、毛沢東の個人崇拝を批判した。
これに烈火のごとく怒った毛沢東は、朝鮮戦争で戦死してしまった長男である毛岸英の恨みもあってか、彭徳懐を解任し粛清するという強硬手段に打って出た。じつは彭徳懐は朝鮮戦争では中国人民義勇軍の総指揮官だった。我が長男を殺したのは彭だ、ということだろう。逆恨みか。ついでにいうなら、後任の国防部長に据えられたのが林彪である。
彭徳懐に対する処分に誰もが恐怖した。正論であったにせよ、毛沢東の意にそぐわない考えを明らかにし、毛沢東に楯突く者と見做された瞬間に人生は終わり、ということだ。かくて大躍進政策に拍車が掛かり、全土は破滅への道をひた奔ることとなる。
当時の情況を映画監督の陳凱歌は『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)に。「河南省では、生産目標で決められた国への売り渡し穀物を確保するために、武装した民兵が、小さなほうきで農民の米びつまできれいに掃き出していた。さらに封鎖線を張って、よそへ乞食に出ることを禁止した。まず木の皮や草の根が食い尽くされ、やがて泥にまで手が出された。そして、道端や畑、村の中で人々がばたばたと死んでいった。三千年にわたり文物繁栄を謳われた中原の省に、無人の地区さえできてしまったのだ。後になって、後片付けの際、鍋の中からは幼児の腕が見つかった」と綴る。
当局は餓死という断固として事実を認めす、これを「非正常な死」と表現するが、陳は「わずか数年の間に、この非正常なまま死んだ人は、二千万から三千万にのぼった。オーストラリアの全人口に匹敵する人々が、消えてしまったのだ」とも。
いずれにせよ、58年からの3,4年間、想像を絶する数の人々が餓死している。いわば仁井田は飢餓地獄情況の中国を旅したわけだが、「中国の旅」には飢餓の「き」の字も、餓死の「が」の字も登場しない。いや、それどころか仁井田が捉えた中国は、「政治でも裁判でも産業発展の上でも、大衆の知恵をよりどころにしている」という絵に描いたような理想郷だった。心、此処二アラザレバ見テモ見エズ、聞イテモ聞コエズ、である。
東大教授であろうが、中国法制史の世界的権威であろうが、招待者側の巧妙で老獪な偽装工作と詭弁の前では、自動筆記装置に徹するよりなかった・・・情けない話だ。《QED》