【知道中国 1098回】 一四・七・仲一
――「支配されながら支配しているのだ」
「香港の二日」(野上豊一郎・弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
漱石門下に連なり、英文学者・能楽研究家として知られ後に法政大学総長を務めた野上豊一郎(明治16=1883年~昭和25=1950年)は、盧溝橋事件発生から1年ほどが過ぎた昭和13年10月、妻の弥生子(「延安紀行」著者)を伴って香港を訪れる。
台湾海峡を過ぎた船は、香港島と九龍に挟まれたビクトリア港に停泊した。「甲板へ出て左舷の方へ廻ると、香港の島は月明下に高低の多い輪郭を黒々と見せて、山全面に燦爛と灯が輝いている」。翌朝、「朝の光の中に見出した香港は、夢からさめたように、はっきりと、鮮明に、正確に、且つ甚だ手近に横たわっていた」
夜と朝の2つの香港を目にした野上は、香港は「どうみても東洋ではなく、といって西洋でもない」と呟いた後、ある西洋人の表現を借用し、「『古い東洋の世界に落ち込んだ西洋の断片』であり、『新しいロンドン』であり、『日光と青空のあるロンドン』」だと記す。
だが、その「新しいロンドン」の「波止場には大勢の支那人がたかっていた。皆つるし上った目を光らしてわれわれを見ている」ではないか。やはり香港も彼らの街だった。
「東洋進出の足場として認めた」がゆえに、大英帝国はアヘン戦争の戦利品として香港を毟り取ったわけだが、「イギリス人一流の開拓方法として、まず山に植林し、漁村を都市に造り上げ、今日見るが如き美しい『庭園都市』として完成したのである。見たところ、上海より小奇麗にまとまって、山の山腹まで町が這い上がっているので殊に絵画的である」と、絵画のように香港の街並みをスケッチした後、その内実に逼った。
「――香港は、イギリスが支那から取り上げて造ったイギリス風の町ではあるが、抜け目ない支那の商人は(この際到るところにうじゃうじゃしてる苦力のことは考慮の外に置くとして)イギリス人に開拓させた町の中に巧みに食い込んで(上海としてももちろんそうだが、)支配されながら支配しているのだ」とした後、「イギリスは百年前に戦争で支那に勝ち、その後の百年間に財的に次第に支那に復讐されつつあるのだ」。やはり「恐るべきはイギリスの勢力ではなく、神秘的な支那民族の底力である。香港・上海が今後どうなるかは知らないが、其処に潜入している支那の財的勢力は政治軍事の表面の勢力より一層警戒すべきものではなかろうか。それは単なる経済学の問題ではなく、民族学・民族心理学・国際文化の問題である」と見抜いてみせた。
また「香港から百五十キロほど北西へ入江を入って突き当たった所に広東があって、これも根強い支那民族の活動の源泉地の一つになっているが、その地の物騒な空気は西洋人をひどく警戒させて、Don’t go to Cantonということが彼等の間で諺になっているそうだ。われわれは行って見たいと思っても行くひまがなかった。それに何だかその方角にはただならぬ雲行きが感じられた」とも。
野上が「見物をすませて船に帰ると、半時間ばかりして船は錨を上げ」、香港を後にした。
「ただ香港島を一周してホテルの支那料理を食っただけに過ぎなかった」ものの、香港の佇まいから中国人の本質に逼った。「抜け目ない支那の商人」は「イギリス人に開拓させた町の中に巧みに食い込んで」、「支配されながら支配している」。「支那の財的勢力は〔中略〕単なる経済学の問題ではなく、民族学・民族心理学・国際文化の問題である」と。
共産党政権に後押しされた中国人が砂上の楼閣のような“経済的繁栄”を鼻に掛け、周辺諸国のみならず地球規模で、野放図で身勝手な自己主張を展開し、迷惑千万を撒き散らしている21世紀初頭の現在であればこそ、野上の指摘は再考されてしかるべきだ。
それにしても延安旅行に旅発つ前の弥生子に豊一郎の爪の垢でも煎じて飲ませておけば、あるいは「延安紀行」の如きブザマな文章を残さなかったと思うが・・・ムリかな~。《QED》