【知道中国 1097回】                       一四・七・初九

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上16)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

野上は自ら望んでの旅行であると記すが、どう読んでも「延安紀行」は終始一貫して招待者側に意図のままに綴られているとしかいいようはない。

 

いわく「日本軍の包囲と、蔣介石の封鎖に対抗するための生産自給運動を」、毛沢東は「身を持って実践した」。「毛沢東が鋤をふるい、肥料をかつぎ、草取りにいそしむ姿は、八路軍の大学生らになによりの刺激になった」。毛沢東は「暇を見つけては百姓たちをたずね、彼らはまた餅粟やじゃが薯を手土産にして、彼の洞窟へ出掛けた」と。

 

だが『延安 日常生活中的歴史 1937-1947』(朱鴻召 広西師範大学出版社 2007年)に拠れば、毛沢東は当時から昼夜逆転した生活を送っていたとのこと。ならば毛沢東は夜中に「鋤をふるい、肥料をかつぎ、草取りにいそし」んでいたことになる。毛沢東は夜中に「暇を見つけては百姓たちをたずね」、百姓たちもまた夜中に「餅粟やじゃが薯を手土産にして、彼の洞窟へ出掛けた」というわけだから、さぞや百姓たちは眠かったことだろう。

 

一時、延安で流行ったダンスについて、野上は「単なるリクリエーションにはとどまらない。抱いて手を執り、うち連れてともに踊ることが、心の共同の繋がりと睦みあいを深めさせなかったとはいえない」とし、続いて「そのころの延安の人口は男十六人に女一人の割りあいで、ダンスでもたいていは男同士で踊ったという」と記す。

 

男女比が16対1で、しかも四六時中の集団生活。革命という“大義”を掲げようが、やはり男女の仲というもの。“恋のさや当て”から刃傷沙汰が起きてしかるべきだろう。

 

延安にダンスを持ち込んだアグネス・スメドレーは、16分の1の女性のなかで唯一口紅を差していた呉光偉を秘書兼通訳として使っていた。どうやら毛沢東は「抱いて手を執り、うち連れてともに踊る」うちに、呉に「心の共同の繋がりと睦みあいを」求めたようだ。

 

ある時、毛沢東夫人の賀子貞がスメドレーの住まいを訪ねたところ、そこで「心の共同の繋がりと睦みあいを」認め合う毛と呉の両人を目にしてしまった。その後は、もはやいうまでもない。「革命の領袖」であろうが、犬も喰わない夫婦喧嘩に違いはない。

 

一件を知った朱徳夫人の健克清を筆頭とする革命幹部婦人連中は、もちろん賀子貞の肩を持つ。他人の夫を家に誘い込み2人きりで、しかも長い時間を過ごすとは不届き千万。男女が夜な夜な群集いダンスに打ち興じ、互いに睦み合う姿などは「公序良俗に反し社会の風紀を乱すブルジョワ階級の腐敗堕落した生活方式」と大反対の声を挙げる。

 

かくて37年7月には呉が、8月に賀が、9月にスメドレーが延安を離れた。そして10月、革命幹部養成のための抗日軍政大学で第六隊隊長を務めた26歳の青年が恋愛のもつれから16歳の女子学生を射殺する事件が発生した。もちろん革命法廷が下した判決は死刑だ。

 

42年になると毛沢東は王明を筆頭とするソ連留学組を狙い撃ちし、党全権を掌握するための整風運動を展開することになるが、『野百合の花』を著し、“革命聖地”における幹部連中の革命とは程遠い生活ぶりを批判・告発した王実味もまた整風運動の渦中でトロツキストと糾弾され断罪されてしまった。

 

「あの壮大な叙事詩的長征と言い、またこの渓谷に営まれた模型的な国づくりといい、なお且つすべての仲間が石の洞窟に軒をならべて困苦を分かちあい、勇気づけあい、労りあった当時の友情、愛、団結をみじんも乱さないで今日に及んでいる中共の生成過程は、世界の革命の歴史に曾つてない珍らかな美しいものだと私は信じたい」と“感動的”に謳いあげる。信じようが信じまいが、それは野上の勝手だ。だが「中共の生成過程」が「珍らか」ではあったとしても、決して「美しいもの」でなかったことは事実が伝えてくれる。

 

やはり“戦後民主主義の良心”とやらの野上も共産党の宣伝要員・・・でしたネ。《QED》