【知道中国 1096回】 一四・七・初四
――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上16)
「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「愚二アラザレバ誣ナリ」・・・あんな愚かなことを言っているのは、本人が余ほどのバカか世の中をバカにしているんだ・・・困ったことに野上の場合、おそらく「愚」と「誣」の両方、つまりバカであるにもかかわらず世の中をバカにしている手合いとも受け取れる。
野上は延安を貫く延河を少し遡った辺りに位置する楊家嶺に向かい、毛沢東旧居を訪ねた。
毛沢東が住んだ「家は三つの洞窟からできている」。黄土層を「幅は一間、高さも一間半よりは高くはな」く掘り抜いて、「八畳より狭くはないかまぼこ型の細長い部屋」に設えてある。部屋と部屋との間は「二尺近い石の壁」で隔てられ、その奥は防空壕に通じている。「風土の極度な乾燥のみでなく、天井も壁もひと色に白く塗ってあるのが、洞窟なる言葉から、私たちが一般に受けとる陰気さはみじんも感じさせない」と綴る。
数年前、実際に足を運んでみた。延安は江沢民政権時代に全国各地に盛んに建設された反日教育・宣伝のための「愛国主義教育基地」と定められ、「紅色游」と名づけられた反日教育ツアーの重点コースに組み込まれていただけに、毛沢東旧居内にも海外在住の「愛国同胞」を含む内外からのミーハーが溢れ返り、落ち着いて見物することは出来なかった。それでも、毛沢東が住んでいた当時の生活の雰囲気は感じ取れたように思う。
野上は旧居の印象を、「洞窟に思いもよらず一種家庭的な雰囲気を漂わせ、なにかこころが和ごむのであった」と記し、「いま北京で、毛沢東夫人がいかなる生活をしていられるのか、私は少しも知らない。とはいえ、どれほど簡素に生きることを望んだところで、これだけの家具と、三つの房からなる洞窟に、夫や子供と蜜蜂のようにささやかに暮らした流儀はとれないであろうから、時にはるかに、このすう辺の山麓をなつかしむ日がありそうな気がする」と、最高権力者が雌伏の時代に過ごした家庭生活の質朴な様を描きだす。
だが、野上は大いに勘違いしていた。彼女が思い描く洞窟時代の「毛沢東夫人」と「いま北京」で暮らす毛沢東夫人とは違っていた。前者は賀子貞。後者は江青。
毛沢東の護衛だった人物の回想談によれば、彼が任務のために毛沢東の住む洞窟に向かうと、パッと明るくなった部屋から脱兎のごとく飛び出した黒い影が、バタバタと音を立てて裏山の方に駆けあがり暗闇の中に消えていったという。誰あろう。これが江青だった。下世話にいうなら、江青は泥棒猫。賀子貞夫人は夫の毛沢東を寝取られてしまったというわけだ。毛沢東が先に手を出したのか、江青が積極的に秋波を送ったのか。それは神のみぞ、いや毛沢東の腰巾着で「中国のベリヤ」と恐れられた特務の親玉である康生のみが知るところだろう。何せ康生が江青を毛沢東に近づけ、2人の中を取り持ったのだから。
かくて糟糠の妻は精神に異常をきたし、治療のためにモスクワへ。以後、江青が政治活動には口を挟まないという一札を周恩来ら共産党幹部に差しだし、めでたく所帯を持てた。さて、その江青だが、かいがいしく家事に勤しみ、セーターを編んだり、毛沢東の大好物の湖南料理風の辛い料理を作ったり、毛沢東の心労を癒すべく毛の道楽である京劇のレコードを求めて延安の街を歩き、アメリカ人女性ジャーナリストといえば聞こえはいいが、その実、コミンテルンから派遣された工作員といわれるアグネス・スメドレーの置き土産である蓄音機を回したりしていた。だが、それは新婚当初のことだけらしい。
やがて毛沢東が“赤い玉座”に鎮座するや、生まれながら体内に住み着いている政治権力への我欲の虫が騒ぎだし、毛沢東を手古摺らせることになる。毛沢東が「あいつが毛沢東夫人でなかったら」と苦々しく呟く様子を、彼の元護衛が回想記に残している。
つまり野上は、招待者が説明のままに自動筆記装置に・・・単純が過ぎます。《QED》