【知道中国 1095回】                       一四・七・初二

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上15)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

延安地区観察所長の話を頭から信じ込んでいるであろう野上は、毛沢東に率いられた共産党と延安住民の“水魚の交わり”をひたすら綴る。

 

「彼らは略奪しないばかりか、ひとの家にも許されなければ入らないし、ものを借りれば必ず返す」。そんなこんなで「百姓はすっかり紅軍びいきになってしまった」。正月まえには、紅軍の兵士らはすべて民家に行って、年迎えの大掃除を手伝った」。極貧から貰いたい嫁も貰えなかった百姓に「世帯をもつに入用なものをみんな貸してやり、嫁を連れに行く馬まで貸して、女房持ちにしてやった」。手のつけられないほどの「依怙地もので、四十年のあいだ洗ったことのない布団にくるまって、ひどいトラホームにかかっていた」婆さんを、「宥めすかして(布団を)洗濯してやり、トラホームの治療も、軍の医者が拝むようにして治療してやったので」、その婆さんは「あとで清潔運動の先がけになって働いた」。

 

ともかくも「毛沢東はじめ党の要人や紅軍がいかに民衆と親しみ、解けあって生きたかの数々のエピソード」を並べ立てる。そして、「これらの話は延安政府の遺跡たる夥しい洞窟とともに、いまはこの山峡の民話の一種になっているらし」く、「到るところできかされたので、ここではこれ以上はならべないことにしよう」と綴るのだが、「山峡の神話」は途切れることなく延々と続ける。

 

毎年正月になると、毛沢東は村の老人たちを招待した。「一人一人に手を差し伸べ、秋の収穫はどうであったか、家内に病人はないかをたずね、おたがいに同じ村の隣人なのだから、心おきなく自分のところへ来て貰いたいし、自分からも訪ねたいといった」とか、「食卓にはできる限りの御馳走がならべられ、幹部のものが必ずそれぞれの食卓について、彼らといっしょに食べた」とか、「毛沢東の挨拶は辞令ではなかった。彼は暇を見つけては百姓たちをたずね、彼らはまた餅粟やじゃが薯を手土産にして、かれの洞窟へ出かけた。うんぬん――。」

 

だから、野上に説明してくれる人々には、「もとより深い尊敬があふれてはいるが、英雄崇拝といったような他人行儀の気もちではなく、うちのいい親爺のことは、なにに限らず話さないではいられない、といった素朴で、一途な相手かまわずのまくしたてで〔中略〕聴くものにも好ましい印象を与える」ことになる。だが、それって、余りにもウソ臭くないかい。毛沢東と民衆の間の“水魚の交わり”を演出する巧妙なプロパガンダだろうに。

 

だが、なにはともあれ野上は毛沢東賛歌を止めようとはしない。

 

ある「記念碑的な建物らしい家」に飾られた毛沢東の肖像を眺めた時、野上は「一種苦笑に似たおもいを」抱く。それというのも「肖像の頭部から、リボンよりもっと広い赤いきれを、左右に垂れるように飾られていた」からであり、その様が「北京のラマ寺である、雍和宮の巨大でグロテスクな本尊の飾り方とそっくりだったからであった」そうな。

 

ヒットラーやムッソリーニ、さらには「ロシアにおける生前のスターリン」にせよ、ともかくも国中到る所に肖像や彫像が氾濫していたが、そこまでして「権威者への認識を強いなければならない状態は、決して安らかとはいえず、却って底に容易ならぬ危惧を蔵する証拠ではないか。私はそんなことまで感じさせられた」。だが、毛沢東は違うらしい。肖像や彫像として飾りたてられることは「むしろ、当人が誰よりもいやではないかと思われるし、毛沢東の東洋的人柄から察して、現職のあいだは致し方なし眼をつぶっているのかも知れない」と、“毛沢東の心中”まで忖度してみせた。

 

だが独裁者は「却って底に容易ならぬ危惧を蔵」していたはずだ。民主派の批判に苛立ち反右派運動を進めた毛沢東は、野上訪中の翌58年、大躍進政策をぶち上げる。《QED》