【知道中国 1094回】                 一四・六・念七

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上14)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

勝利目前の毛沢東に劉邦の天下掌握を暗示した『覇王別妃』の公演を献ずる。これこそ即位目前の”赤い皇帝“に対する京劇界の必死の拍馬屁(ゴマスリ)である。共産党の天下になって旧中国が完全否定されようとも、旧い封建中国で華盛の時を謳歌した京劇が、これまでと同じように、いや益々盛んに公演できますよう。幹部の皆様に、我ら役者のパトロンとなって戴きたいという懇願のメッセージだったはずだ。

 

京劇と政治の因縁は数限りないが、一先ず切り上げ、話を再び野上の見た延安に戻すことにする。

 

どうやら野上にとっては、延安の「むっと日向臭い黄土の粉末で肺臓を膨らましている」住民の誰もが純朴で、共産党贔屓でなければならないらしい。そこで、そんな男の代表として「延安地区観察所長」が登場することとなる。

 

「日本でこんな職にある人とは全然違った形をしてい」て、「背丈も高く、からだつきも頑丈な大男で、おそらく農夫か労働者であったに違いないが、また、きっとその時のものとたいしてかわらない洗いざらしの藍木綿の服は、膝につぎがあたっている」とのこと。ならば野上の注文にぴったりだったろう。

 

そんな「彼はなかなかの雄弁で」、「毛沢東の延安入りになると、からだを椅子から乗りだし、手振り、身振りのおおきなゼスチュアで、このことは言葉では追っつかないといった恰好でまくしたてる」のであったが、通訳泣かせの丸出しの土語。そこで彼女は、延安地区観察所長のことばを敢えて次のように綴った。

 

「毛主席がござったのは、年が明けてもう正月でがんした。紅軍の兵隊が百五十メートルから二百メートルおきにつん並ぶ中を、驢馬に乗ってござったが、灰色の綿入れに、同じ恰好でな、赤い星の八角帽をかびって、はいた沓は裂けていましたわ」。延安の街から出迎えが出て、「なにか景気をつけたいにも、急場のこととて間にあわん。そこで嫁取りやお葬式の時の笛、ラッパをかき集めて、毛主席の姿が見えると、ぴいぴい、ぷうぷうやって、わあーっとみなの衆がどなって歓迎したでがす」

 

延安地区観察所長が毛沢東の延安入りを目撃したのが22歳。それから12年が過ぎた1947年、ということは彼が34歳の時に胡宗南軍の延安占領があり、さらに10年が経った1957年に野上が延安入りしていることになる。ということは、はたし『1947年春:延安』に収められた写真に、34歳の時の延安地区観察所長は写されている可能性なきにしもあらず、だろう。彼は毛沢東と共産党に対する延安住民の大歓迎ぶりを語っている。だが、だからといって胡宗南軍が歓迎されなかったわけでもないだろうに。じつは『1947年春:延安』の写真からは、胡宗南軍をも歓迎した延安住民の姿が浮き上がってくるようだ。

 

たとえば胡宗南軍による占領後の住民大会に向かう1枚。2組の家族連れらしい姿が写されている。全員が綿入れの厚手の木綿地の上着にズボン。着古された様子は、モノクロ写真からも十分に感じられる。生活が豊かでなかったことが偲ばれる。一団の先頭を笑顔の男の子2人が歩き、その後に続くのが晴れ晴れとしたような笑顔を振りまく3,4歳と思しき女の子。彼女の左手がしっかりと繋がれている相手は、たぶん母親だろう。その後ろを子犬が1匹。最後尾を歩くのは父親たちか。ものいわぬモノクロ写真ではあるが、その1枚から和気藹々と歩く家族の軽やかな足音と歓声が聞こえてくるようだ。

 

延安地区観察所長の語るように毛沢東と共産党が歓迎されたとして、延安住民は同じように胡宗南軍をも歓迎したに違いない。

 

長いものには巻かれろ。ドブに落ちた犬には石をぶつけろ。万古不易の処世訓。《QED》