【知道中国 1093回】                       一四・六・念五

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上13)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

孔明陣営の3つの城郭を攻め落とした司馬懿の大軍は、勝利に勢いづきながら西城に襲い掛かった。守備兵の出払った西城を守るは孔明と僅かな老兵のみ。これでは雲霞の如く押し寄せる司馬懿の大軍を前にひとたまりもなく、西城陥落は避けられそうにない。かくて死中に活を求めようと空城の計を仕掛けた孔明は、余裕綽々たる様を演じるべく西城の城楼に立って琴を奏で唱いだす。京劇《空城計》のクライマックスである。

 

「我正在城楼 観山景 耳聴得城外 乱紛々・・・我いま城壁(しろ)の上に立ち、四囲の山河に目を遣れば、耳に聞こえる軍馬の響き、軍旗大いにはためきて、あれは司馬懿の軍勢か、我いま人を遣わせて、探りてみれば司馬懿の軍、西(ここ)を目指して攻め来る、一に馬謖の無謀にて、二つに諸将の指揮乱れ、かくて街亭敵の手に、我が三城を抜き去るは、げに見事なる戦ぶり、続いて我が西城(しろ)抜こうとは、そが心意気壮ならん、我いま城楼(しろ)に君待つは、共に語らんためなるに、西城(しろ)への道を清めるに、君が手勢に休息を、むさ苦しきが楼上なるも、美酒に肴を整えて、君が勲を寿がん、先ず城内に進まれよ、などて逡巡めさるのか、歩(あゆみ)を留めて悩むなし、我にあるのは琴童二人、兵など伏せてはござらぬぞ、いざそのままに階を、登り来たりていざここに、耳を傾け愉しまん、我が弾く琴の調べなど・・・」

 

胡宗南軍の砲撃を聞きながら、毛沢東がこう口ずさんだのかどうか。それは判らない。だが、警護の兵がそう回想すれば、いつしかそれが真実となって、知略溢れ豪胆な現在の孔明としての毛沢東像が出来上がり、増殖しつつ一人歩きすることになる。

 

行きがけの駄賃とも、ものはついでともいうから、毛沢東と京劇にまつわる話題をもう1つ。

 

時は1949年4月。所は、まだ北平と呼ばれていた頃の北京。京劇関係者たちは毛沢東と共産党中央の北京入城を歓迎するため、毛を筆頭とする共産党幹部を京劇公演に招く。

その日の夕暮時、いつもより早めに夕食をすませた毛沢東は、北京郊外の景勝地で知られる景山の西南にあり、かつて孫文も住んだといわれる双清別墅を出て、警護の部隊に守られながら街の中心に。戦禍を免れた長安大戯院の二階正面中央のロイヤル・ボックスに座った毛沢東の左右には、朱徳、劉少奇、周恩来ら“革命の元勲”が侍る。宿敵である?介石との戦いの勝利は目前だ。中国の大地は、もうすぐ毛沢東の掌に落ちる。

 

日中戦争中は、髭を蓄えることで旦(おやま)は演じられませんと日本側からの京劇公演要請を頑なに断っていたと伝えられた梅蘭芳が、日本への抵抗の思いを託した髭をきれいサッパリと剃り落とし、心機一転、何年かぶりに舞台を務めるという。数年の空白は梅の芸を衰えさせたのか。それとも以前にも増して艶やかな舞台を見せてくれるのか。毛沢東の期待も高かったはずだ。この夜、毛沢東に献ぜられた演目は、梅蘭芳が虞姫を、劉連栄が覇王項羽を演じた《覇王別姫》。

 

劉邦との戦いの勝敗はほぼ決したうえに愛妾の虞姫をも失う。失意の項羽は気力を振り絞って垓下での決戦に臨む。だが、さすがの項羽であっても「時に利あらず」なら致し方なし。僅かに残った敗残の兵を従え、劉邦の大軍の真っただ中に死地を求め、阿修羅の如き様相で飛び込んでいくしかなかった。

 

即位直前の“赤い皇帝”に、なぜ、かくも縁起でもない京劇を献じたのか。じつは項羽は?介石を、虞姫は宋美齢を擬している。ならば項羽を打ち倒して強大な漢帝国を築き上げた劉邦は、もちろん毛沢東を指す。毛沢東帝国の誕生を寿ぐに、これ以上の芝居はない。

 

「借古諷今(古を借りて今を諷(かた)る)」・・・芝居がかった政治であることか。《QED》