【知道中国 1092回】                       一四・六・念二

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上12)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

ここからは些か野上から離れるが、万事に芝居がかった中国の政治文化について少し考えてみたい。

 

1947年4月の胡宗南軍による占領直後に延安入りした国民党系新聞記者は、それから40年ほどが過ぎた80年代末期の台湾において、「内外の数十人の記者は特別ルートで延安に入り、国軍(=国民党政府軍)が栄光のうちに取り返した共都(=共産党政権の首都)の姿を徹底して捉えようとした。だが西北地域を管轄する胡宗南将軍はじつによそよそしく、一行を宴席に招待したものの、終始沈黙するままであった。〔中略〕名前のみ広く世に知られながら実態が明らかでなく神秘のベールに包まれた街が、空っぽであることを知った。訪ねて問い質すべき相手もいないし、伝えるべき話題にも乏しかった。2日間の延安滞在だったが、記者の誰もが暇を持て余すのみ」と、当時を振り返っている。

 

つまり毛沢東を筆頭とする共産党勢力は、胡宗南軍と戦うことを敢えて避けた。戦いの真の目的は延安という街や共産党が本拠を置く建物ではなく、共産党中枢を守ることであり、敵を消耗戦に引きずり込むことだった。そこで共産党は一般住民と僅かな民兵を残し、重要機関の建物の柱と屋根と壁のみを残し、鍋釜の類の日常生活道具を含め他の一切合財を持って延安から退去したわけだ。敵が立ち去ったら、またぞろ家財道具を持って元に棲家に戻るだけ。これまた中国における戦争の一つ形ということになる。

 

砲弾を雨霰と撃ち込んだ後、胡宗南軍は延安に突入した。だが延安は空っぽ。なんともお粗末でトンマな話だ。とはいえ胡宗南軍は共産党部隊潰滅の“事実”を招待した内外記者に示さなければならない。そこで胡宗南軍政治部は、隷下の指揮官を共産党軍旅団長に、兵士を共産軍兵士に仕立て上げ、記者団に面会させた。彼らに面談した記者は、「捕虜は誰もが同じような返答しかしない。明らかに想定問答を練習している」と呆れ返るしかなかった。

 

『1947年春:延安』には?介石の秘書と並んで立つ胡宗南の写真も残されているが、「共都」を殲滅し大軍功を立てた将軍の華々しさは微塵も感じられない。彼の顔には沈鬱の影が射す。それもそのはず。索敵作戦を敢行すれども毛沢東の行方は杳として掴めず、共産党主力は霞のように黄土の山々に消えてしまったのだから。

 

毛沢東の護衛の回想によれば、じつは毛沢東は延安を見下ろすことのできる近くの山の頂から、自らが立案した作戦の出来栄えに満足しつつ、胡宗南の延安攻撃の様を観戦し、ドーン、ドーンという砲撃音を伴奏代わりに、京劇の演目である『空城計』の一節を唸っていたという。さすがに戯迷(芝居狂い)の毛沢東である。やはり芝居っ気はタップリ。

 

ところで京劇の『空城計』の粗筋だが、

 

功を急ぐあまり馬謖は孔明の知略を無視し無謀にも敵陣深く突っ込む。一方、孔明の居城(といっても日本風の城郭ではない。城壁で囲まれた街)に残るは僅かな老兵。やがて司馬懿の大軍勢が雪崩を打って押し寄せる。そこで孔明は奇策にでる。城門を開け放ち、城楼のうえで琴を奏でながら「酒食を備えお待ちした。いざ、城内へ」と誘う。はて、これは孔明の機略。誘いのままに城内に進むと城門を閉じられ一網打尽。それを恐れた司馬懿は「進撃を」と懇願する息子の司馬昭を「小童どもに何が判る」と退け、大軍に退却を命ずる。司馬懿の短慮に命拾いした孔明は軍議の席で馬謖の軍規違反を厳しく問い質す。死罪を免れんと懇願する馬謖。だが軍規の厳しさを示す共に全軍を鼓舞すべく、孔明は自らが育てあげた馬謖の斬首を命じた。泣いて馬謖を斬る、である。

 

やはり眉にツバして聞いた方がよさそうだが、万事が宣伝戦と考えれば・・・納得。《QED》