【知道中国 1091回】 一四・六・二十
――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上11)
「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
野上は、「満州事変なるものの頃に遡って考えても、日本軍部の行き方には私は常に否定的であった。それとて、ごまめの歯ぎしりに終わったのであるが、とにかく、この態度だけは失わなかった」と胸を張り、「私の良心のおかげ」と自画自賛してみせる。少女趣味もイイカゲンにしてもらいたいところだ。「この態度」の実態を知りたい気もしないでもないが、まあ知ったところで凡そ屁のようなものと五十歩百歩であり、しょせんは有閑マダム(もはや死語だが)の好尚を装った井戸端会議か白日夢の類だろう。とにもかくにも延安までノコノコと出掛けて行って「私の良心」をひけらかすなんぞ、なんとも腐り果てた根性の持ち主だと呆れ返るしかない。
これまでみてきた柳田謙十郎を典型例といっておくが、ともかくも野上も含め、この種の手合いを“戦後民主日本の良心の象徴”などと煽て、上げ膳据え膳式で招待し、徹底して丸め込んで洗脳し、対日宣伝工作要員として仕立てあげる。かくして日本に戻った彼らは、共産中国のために嬉々として宣撫工作に邁進することになるわけだから、見事なまでに計算され尽くしたイメージ戦略というしかない。
つまり中国側のイメージ戦略に則って野上は延安を歩く、いや正確に表現するなら歩かされたということだろう。であればこそ、毛沢東や共産党に対し悪い印象を抱くわけがないはずだ。
「福建省の瑞金から出発したえりぬきの紅軍十万の男と、三十五人の女が、到るところに待つ敵との戦い、それ以上に苦しい悪路、荒野、激流、水浸しの大草原、千年の雪の山岳との戦いに、仲間の多くをつぎつぎに失いながらも、二年近くもかかって二万二千マイルを踏破し、あの『出埃及記』ともいうべき偉大な長征記を読むたびに・・・」と、瑞金から延安までを感動的に綴り、毛沢東に率いられた共産党の英雄的な姿を訴えようとする。
かくして、この部分を、野上の言動にイカれ、自らを“民主日本の良心”と自惚れているようなゴ仁が読めば、瑞金から延安を勇猛果敢に戦い抜いた毛沢東率いる共産党の不撓不屈の姿に大感動してやまないはず。だが、『出埃及記』が聞いて呆れる。あれは共産党殲滅に執念を燃やす?介石軍による最後の包囲掃蕩作戦からの命からがらの逃避行だった。『出埃及記』を連想させる大長征物語は、共産党が脚色した実態とかけ離れたイメージ大作戦だったのだ。「えりぬきの紅軍十万の男と、三十五人の女」というが、こんなイビツ極まりない人間集団がマトモに戦闘行動をとれるのだろうか。全員が聖人君子でもあるまいに、敵に立ち向かえるとは考えられそうにない。だいいち「十万の男」の中に僅か「三十五人の女」だなんて、やはり異常だろうに。どう考えても、いや考えなくてもオカシイ。
じつは?蒋介石軍の猛攻を前にして、彼らは根拠地の瑞金を放棄せざるをえなかった。座して死を待つより、ともかくも退却である。当初は最終目的地など考えられなかったようだ。ともかくも逃げて、逃げまくった。雲霞の如く押し寄せる追っ手を逃れ、ひたすら逃げるしかなかった。途中で仲間割れや、離脱逃亡をも経験しながら、ともかくも逃げまくった果てに、乞食同然の姿で延安近くの呉起鎮(現在の呉旗)に命からがら辿りつく。
最終的に「三十五人の女」はどうなったかは不明だが、「十万の男」は1万人以下に激減している。一説には3千人前後とも。ならば軍事行動としては大壊走と判断するしかない。にもかかわらず共産党は、この大逃避行を革命の大義のために敢えて茨の道を進む英雄どもが躍動する獅子奮迅の物語に潤色し、世間を欺き、「大長征物語」に仕立て上げ、政治的大勝利を捥ぎ取ってしまったという次第。これこそが共産党得意の宣伝戦である。
ならば野上なんぞを騙すことなど、じつは赤子の手を捻るより簡単だったのだ。《QED》