【知道中国 1090回】                       一四・六・仲八

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上10)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

延水の渓谷に沿った延安の街を歩き、四囲の山々を眺めながら、野上は「一帯の向こうの山は、すっぽり皮を剥がれたように茶がかった灰色の地肌をあらわし、樹木はもとより、一ひらの草地もくっ着いていない。ただ山容だけはかわらず段々畑式で、しろじろと尖って重なった層がなにか肋骨めいて見える」と綴る。

 

さすがに作家、である。緑のない黄土の禿山の様子を過不足なく描写してみせるが、その先がイケない。「聞くところによれば、もともと樹木の乏しかったこの辺の山を、かくまでもむざんな姿にしたのは、一九四六年、胡宗南の率いる?介石軍の侵入であった」と。だが胡宗南軍が延安に留まったのは1年足らず、48年には共産党軍が奪還している。ということは、野上の延安旅行までの10年余の間、共産党政権は周囲の山々を禿山のまま放置していたということになる。

 

また中共政権が置かれた当時の主要な建物の1つであった大礼堂に案内されて、「内部ももとのままではない。胡宗南の軍隊の破壊からわずかに免れたのは、天井に近くならんだ両側の高窓のみだとのことである」と記す。だが、胡宗南軍の攻撃による陥落直後の延安を写した『1947年春:延安』を見れば、野上が案内された大礼堂は「天井に近くならんだ両側の高窓のみ」ではなく、建物全体に破壊された様子は見られない。屋根も壁もそのままだ。

 

どうやらというべきか。案の定というべきか。野上は案内者の説明をそのまま鵜呑みにしている。だいいち「胡宗南の率いる?介石軍の侵入」は「一九四六年」ではなく1947年のはず。「もともと樹木の乏しかったこの辺の山を、かくまでもむざんな姿にしたの」も、「天井に近くならんだ両側の高窓のみ」を残して大礼堂を破壊し尽くしたのも、すべて胡宗南軍の“悪行”にしておこうというのが共産党の宣伝工作の狙いだろうが、どうやら野上は、それに完全に乗せられているようだ。もっとも「胡宗南の率いる?介石軍の侵入」と、「侵入」の2文字を使った時点で彼女の政治的立場は明確ではあるが。

 

「いわゆる南関なる延安の南側」を見て廻る。一帯には通信社、銀行、合作社、売店など中共政府が置かれていた当時の生活機関があっただけに、日本軍の空爆も激しかったとのこと。そこで、右に「堅持抗戦、堅持団結、堅持進歩、辺区是民主的抗日根拠地」、左に「反対投降、反対分裂、反対倒退、人民有充分的救国自由権」と毛沢東の揮毫が刻まれた2本の石柱を目にする。

 

「政治、外交の解決に残されているものはあるにしても、彼我は十年まえに武器を捨てた。(案内役の)黄さんは日本の爆撃をいい、毛沢東の抗日の檄文を指しながら、相手が当時の敵であることはとんと忘れた風情であり、また私たちは私たちで、戦争の名において自分の故国が彼らに与えた暴虐のあとを、一人の旅行者として客観的に眺め、一つの『過去』としている」とした後、実際に現地を歩いてみると「あらためて、どういう国に来たかを思い知らされる」と綴る。だが彼女が「悪の追想に打ちひしがれるのを免れたのは、戦争中もどうにか保った私の良心のおかげである」そうな。

 

「満州事変なるものの頃に遡って考えても、日本軍部の行き方には私は常に否定的であった。それとて、ごまめの歯ぎしりに終わったのであるが、とにかく、この態度だけは失わなかった。もしどんな些細なかたちにおいても、彼らに協力したり、同調したりの経験があったなら、中国の客として、今日その国土を訪ねる勇気は決してもてなかったであろう」と戦争中の自らの立場を告白し、だから勇気を持って「中国の客」になれた、と。

 

それにしても、である。「私の良心のおかげ」とは些か大げさが・・・過ぎませんか。《QED》