【知道中国 1089回】                       一四・六・仲六

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上9)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

野上は、黄土の民を「むしろ人々は、その中から生まれ、漁夫が海の潮の香に生きるように、むっと日向臭い黄土の粉末で肺臓をふくらましている」と記す。まるで「黄土の粉末」が逞しく純朴な農民の“栄養源”のように形容しているが、その「黄土の粉末」が飛び散る延安に足を踏み入れた途端、「道も家並もほこりっぽく、薄穢ない」と言ってのける辺り、流石に“天然童女”の面目躍如といったところだ。バカ正直というべきか、タワケというべきか。いまや死語に近い表現を使うなら、やはりKYの人というしかない。

 

いま手元に『1947年春:延安』(秦風老照片館編 広西師範大学出版社 2009年)という写真集がある。

 

1946年6月に国共内戦が始まってから9ヶ月ほどが過ぎた47年3月、胡宗南に率いられた国民党軍は延安陥落の戦果を挙げた。共産党の本拠であり難攻不落を誇っていた延安だけに、?介石の喜びようはなかったはずだ。かくて国民党国防部新聞局は内外の記者55人を招待し、3機の輸送機に分乗させ南京発西安経由で延安に送り込んでいる。4月4日から8日までの数日ながら、延安を自由に取材させることで、共産党の「共匪」ぶりを報道させ、国共内戦において自らが優位に立ったことを内外に強く印象づけようとした。この延安取材に応じた記者が陥落直後の延安を撮影した写真を収めたのが、『1947年春:延安』である。

 

共産党の中枢機関、黄土に刳りぬかれた毛沢東や朱徳など幹部の住宅をはじめ、当時の延安の庶民の姿が詳細に記録されている。「道も家並も」記録され、「ほこりっぽく、薄穢ない」様子が、古ぼけた白黒写真から浮かび上がってくる。写真が写されたのが47年で、野上の延安旅行は57年。この間に10年が経過しているが、黄土高原の真っただ中の田舎町が劇的に変わるわけがない。たとえそこが“革命の聖地”であったとしても、だ。

 

47年か57年までの10年間を振り返ると、国共内戦における国民党の敗北と?介石の台湾への逃避、共産党政権の誕生(49年)、都市と農村における社会主義化運動、「百花斉放・百家争鳴運動」、反右派闘争と中国社会は激しく揺れ動いた。だが、『1947年春:延安』に収められた数々の写真に見られる延安の庶民の生活と、野上が接したそれとの間に然程の変化はなかっただろう。共産党が中枢機関を置いていようが、国民党軍が攻め落とそうが、中華人民共和国になろうが――野上の表現を借りるなら――彼らは「むっと日向臭い黄土の粉末で肺臓をふくらましている」しかなかったはずだ。

 

であればこそ、腰の辺りを荒縄状の紐で縛り、「黄土の粉末」を目いっぱい吸い込んだような厚手の、しかもボロボロの綿入れの上下に身を包み国民党から配布される救済金を求めて列をなし、あるいは医薬品を求めて診療所の前に群がり、時に国民党軍歓迎の民衆大会に参加し共産党がいなくなったことで延安に自由が戻ってきたことを喜んでみせた老若男女の大部分を、おそらく野上は延安滞在中に目にしていたことだろう。

 

延安の街を案内され車から降りた野上は、「近くのごたごたした家から好奇的にとびだして来た男や、女や、子供たちに取りかこまれ」る。そこで「ひとつの感動が私を捉えていた。平和であることは、有難いだろう」と綴るが、野上を取り囲んだ人々の大部分は、10年前の1947年4月に国民党招待の新聞記者に写され、『1947年春:延安』に姿を留めているはずだ。

 

48年4月、共産党は反転攻勢し胡宗南軍を追い払い、延安を奪還する。その戦いもまた、延安の人々は「日向臭い黄土の粉末で肺臓をふくらまし」、「黄土の粉末」を身に浴びながら眺めていたに違いない。これが「ほこりっぽく、薄穢ない」街の歴史なのだ。《QED》