【知道中国 1040回】 一四・二・念一
――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島15)
「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
「中国のほんとうの宝」である「この少年少女たち」の幼く柔らかいはずの脳ミソが学んだのは共産主義道徳、弁証法的唯物主義世界観、強烈で偏頗な民族主義、それに共産主義社会実現に向けての方策・・・これでは、否が応でも頭はコチコチに固くなってしまう。いや、固くならないわけがない。かくして、彼らは固い頭のままに文革では劉少奇、林彪、四人組を次々に批判し、毛沢東の後継者として登場した華国鋒を「英明なる指導者」と讃え、やがて鄧小平を改革・開放の総設計師と熱烈歓迎し、頭の固さを自省する暇のないままに息せき切って時代を駆け抜け、いまや「中国の夢」を引っ提げて大妄想の大暴走。
空恐ろしいことながら、中島が「中国のほんとうの宝」とヨイショした「この少年少女たち」の、最も若い世代が現在の共産党最高指導部を形成する習近平や李克強たちであり、その前の世代が胡錦濤・温家宝たちということになるのではなかろうか。
ならばこそ、中島が日本人に対して「この少年少女たちににらまれるような機会を作ったら、もうおしまいである」と、オ気楽千万な物言いをしたのも、今から考えてみても“卓見”であったといっておこう。いや皮肉でも何でもなく、真顔で。
身勝手・理不尽極まりない無理難題を日本人に吹っかけてきて、それに理路整然と筋道立てて誠心誠意で真っ当に対応するや、気に入らないとばかりに猛反発。やれ日本帝国主義の復活やら東アジアの軍事的脅威の元凶だなどと難癖をつけては睨み、凄んで見せる。三つ子の魂百までもとは、よくいったものだ。睨む睨まないは彼らの勝手だが、日本人としては睨まれたからといって縮みあがり、睨まれたくないからと泣き寝入りするわけにはいかない。絶対に。
だが振り返ってみれば、実は中島の“ゴ忠言“に従って、彼らにいわれるがまま。どんな無理無体を吹っかけられても穏便第一主義を墨守し、ゴ無理ゴ尤もと耐え忍んできたのが、ここ数10年の日中関係ではなかったか。だからこそ、かくも情けなくブザマで卑屈極まりない振る舞いは、当然ながら、「もうおしまい」にしなければならない。断固として。
「中国のほんとうの宝」が、その後にどのような人生を送って現在に至ったのか。いずれ掘り下げて考える機会もあるだろうから、ここでは中島のトンマぶりを見るうえからも、関連資料を示しながら、反右派闘争の実状を瞥見しておきたい。
その1。周希賢は中学校教師で武漢市の労働模範。反右派闘争直前、学校のためを思って校長に意見具申した。ところが反右派闘争がはじまるや右派と糾弾され、「減俸され、農村への労働改造に送られたのちに教師の職に戻ってからも、まるで罪人のような生活をしていた。性格も変わってしまった。家族全員が巻き添えになり、生活面でも打撃を受け、屈辱をなめつくした」。20数年後に冤罪が晴れ、右派ではなかったことが公式に認定された際、当時の校長は「あの頃は学校で『右派』を倒せという人数の指標があり、党の任務を全うしないわけにはいかなかった。とにかく誰かを右派にしなければならなかった」と、反右派闘争の内情を告白し謝罪する。
要するに学校として「党の任務を全う」するため、周希賢は犠牲者にされてしまったということだ。上から示された打倒すべき「人数の指標」、つまり単なる員数合わせのために右派と断罪され、「屈辱をなめつく」す羽目に陥ったということになる。
以上は『ビートルズを知らなかった紅衛兵 中国革命のなかの一家の記録』(唐亜明 岩波書店 1990年)の一節。ここから、右派であるかどうかの基準が極めて恣意的で曖昧模糊としたものでしかなかったことが判るが、右派と断罪された犠牲者を苛め抜き血祭りにあげるための批判大会は、厳密・巧妙に計算し尽くされた手順で進められたのだ。《QED》