【知道中国 1088回】 一四・六・初七
――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上8)
「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
21世紀初頭の黄陵は世界中の漢族にとっての聖地と化していた。革命の聖地である延安と漢族の聖地である黄陵。2つの聖地を組み込んだ観光ルートに、海外からの華人観光客が押し寄せる。延安で言葉を交わしたマレーシア華人観光団に、ここでも出会った。
黄陵の麓には、全く似つかわしくなさそうな、まるでギリシャ建築を思わせるバカでかい白亜の神殿、ド派手な神殿風の建物が並ぶが、どれも世界中の華人資産家の寄付で建設されたとのこと。目立つところに寄付した者の名前が記されていた。なかには台湾からのものも見られ、「四海為家(世界を我が家に)」を掲げる漢族の意識の強さを改めて知らされたものだ。ダラダラと続く坂道を登り切った先に黄帝の墓があったが、その周囲にはここを訪れた歴代指導者の揮毫を彫り込んだ巨大な自然石の石碑が並び、その中には?介石のものも。風水思想で最適地となるように陵墓を含めた周辺が設計され、前方に水があった方がよりよいことから、最近になって巨大な人工池を掘ったとのことである。
陵墓の前方を取り囲むようにレストラン、ホテル、土産物屋などの観光施設が配され、「中国の陝西の奥地」の人々も、中国のみならず世界各地から押し寄せる黄帝の末裔たちへの応接に忙し気であり、昔のように「むっと日向臭い黄土の粉末で肺臓をふくらませている」暇もないようだった。
さて野上に戻るが、黄陵と延安の中間あたりの昼食となる合作社で早い昼食となった。食事後、野上は合作社の裏庭の外れで面白いものを見つけける。「それはカンゾの堆積の向こうの軒先に放りだされた、二尺ばかりの孔子像」だった。「どこにあったものか。もしかしたら、その裏庭には小さな廟でもあったのかも知れない。いまの合作社にはこの聖人より苅取り機や製粉機械のほうがありがたいのであろう」
合作社とは、50年代初頭からはじまった農業の社会主義的改造政策によって農村に設置された協同組織であり、初級合作社から集団所有・統一経営・統一分配を目指した高級合作社へ。さらに58年の大躍進政策の柱として人民公社へと発展・拡大された。毛沢東が頭の中で妄想した農業の集団化が、後々、大きな悲劇を招くことになるわけだ。
野上が見た孔子像だが、もはや不要の品として「軒先に放りだされた」に違いない。たしかに古来中国では「至聖」と崇め奉られた孔子だが、それは否定されるべき旧中国の残滓でしかなく、新中国において「カミサマ」というものは毛沢東の上にはマルクスとレーニンしか認めないわけだから、野上の記すように、「いまの合作社にはこの聖人より苅取り機や製粉機械のほうがありがたいのであろう」ことは十分に“理解”できる。
その後、文革期には入って孔子は徹底して否定されたが、現在では民族精神の柱として再び崇め奉られている。その証拠に、孔子の名前を冠した孔子学院を全世界に設け、中国語を柱に中国文化なるものを全世界に広めようとしている。
それにしても孔子サマ、共産党政権が成立して後、蛇蝎の如くに嫌われたかと思うと、一転して民族精神の精華などと持ち上げられたり。なんともゴ苦労サマなことです。
さて、一行を乗せた車は、「山の裾を経めぐり、経めぐり、進まなければならない。右にあった山が左になり、左の山が右に移ったりする」。「ある時、道がにわかに登りになる」。
「そのうちに頭上の山が、私たちを通すために左右からドアが引いたようにすこし隔たり、あいだに灰いろした泥の多い川が現れた」。延安の街を流れ、やがて黄河に注ぐ延水だ。
「もう着いたようなものだ」。「私は疲れを忘れ、興奮の期待で延安の午後のしいんと寂しい町にはいって行った」。やがて「もう夕陽になりかけた町を〔招待側責任者の案内で〕一と廻りする。道も家並もほこりっぽく、薄穢ない」・・・案の定・・・やっぱりなァ。《QED》