【知道中国 1086回】 一四・六・初三
――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上6)
「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
映画監督の陳凱歌は「『ほかの人を苛めてはいけないし、苛められてもいけない。苛められてばかりいると、最後には悪い人になってしまうよ』これが、おばあさんの口癖だった」と回想する。おばあさんは「目に一丁字もなかった」が、「明快な道理」も教えてくれた。
「昔から中国では、押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった。寛容などは考えられない。『相手が使った方法で、相手の身を治める』というのだ。そのため弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない。ただ相手が入れ替わるだけだ」(『私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春』(講談社現代新書 1990年)
「苛められてばかりいると、最後には悪い人になってしまうよ」とは含蓄のある箴言であり、「相手が使った方法で、相手の身を治める」とは中国史を貫く大原則だとも思える。
毛沢東=共産党は土地改革を強行し、地主を血祭りにあげ土地を手にすることが革命であり、革命こそが農民にとっての正義であると教え込んだ。「押さえつけられてきた」農民に「正義を手にしたと思い込」ませた。そこで勢い「もう頭には報復しかなかった。寛容などは考えられない」ことになってしまう。「相手が使った方法で、相手の身を治める」ことが許されたのだから、「農民達は『地主千人位殺すことは蟻一匹殺す程にも思っていない』とうそぶいていた」わけだ。「そのため弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない。ただ相手が入れ替わるだけ」。かくして、怨嗟と報復が永遠に繰り返されることになる。
だが野上が学んだ中国史には、民族の歴史が辿った冷血すぎる現実、いや陳凱歌が教えられた「明快な道理」が完全に欠落している。それが日本人の中国理解を妨げて来た。かくて野上の前には、常に純朴で英雄的な農民しか現れはしない。
「今夜の泊りは銅川から八十キロの黄陵ときまっている」。「黄陵は西安、延安の距離三百五十キロのほぼ中間にあたり、太古の伝説的な王、黄帝の陵がるためにその名をおぼえているとのこと故、土地もふるいに違いない」
数年前の延安旅行の際は、朝に延安を発って南下し、昼飯を黄陵で、そして明るいうちに西安に到着したが、高速道路を突っ走ったからできたことだ。野上が旅行した当時は、ガタガタ道であり、やはり銅川で一泊して、体も車も休めることが必要だったのだろう。
「六時すぎ、黄陵のひっそりした部落に辿りついた。山の太陽はまだかんかん明るい。くるまがはいって行ったのはホテルでも、招待所でもなく、『黄陵県人民委員会』『黄陵県保安局』『黄陵県人民法院』『黄陵県人民検察院』と中国式の立派な文字で、一つ一つ別な板に大きく書きならべられた門のなかであった」。つまり、「門のなか」こそが黄陵県の立法・司法・行政のすべてを統括する場所、いわば「黄陵県人民」の生殺与奪の全権を握る共産党の中枢であった。
そこで野上は、迎えに出た40歳前後と思われる県長を観察して、「藍いろも色のさめた詰襟に、同じ木綿の帽子をかぶり、瘠せて、小柄で、途中麦を苅ってたり、荷馬車を走らせたりしていた男が、そのまま現れているかと見える恰好である。握手の掌も硬い。おそらく彼はもと農夫で、解放戦のころには、仲間の多くがそうであったように、赤い星の帽子をかぶっていたのかも知れない。整った容貌で、悧巧そうな眼つきをして、笑うと黒い顔に真っ白な歯が輝く」と表現する。
こう綴られると、県長こそ「超人的な辛抱強さで耐えぬいた」農民の代表だと思い込んでしまいそうだ。だが、県長という立場に就いているからには土地改革の勝ち組の代表と考えて間違いないだろう。ならば、「地主千人位殺すことは蟻一匹殺す程にも思っていない」と嘯いていたかもしれない。だが野上は、相変わらず無邪気でノー天気だった。《QED》