【知道中国 1084回】 一四・五・三〇
――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上4)
「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)
おそらく「黄土の粉末で肺臓をふくらまし」たら、マトモな人体なら十中八九は体調を狂わせてしまうはず。だが黄土の民は体の構造が違う。ヤワではない。だから数千年来、「漁夫が海の潮の香に生きるように」、「黄土の粉末」の中を平然と生き抜いける・・・はず。
冗談はさておき、おそらく、「黄土の粉末」と人体の関係に思いを及ばさずに野上の文章を読み進むなら、行間に「海の潮の香に生きる」漁夫のように、厚い胸をした、赤銅色の肌をした筋骨隆々たる農夫が立ち現れてくることだろう。
「今日までの中国の幾千年の長い苦しい時代、その苦しみはまた、誰よりも重く農民に背負わされていたのに、彼らは超人的な辛抱強さで耐えぬいたばかりでなく、いよいよそれを反ね落とす日が到来した時、まっ先に英雄的に立ち上がらせた逞しい力は、彼らの根源である大地の底から、あの呼吸を通じて摂取したものだと見られないだろうか」と、毛沢東に指導された共産党による患難辛苦の農民革命の歩みを、野上は感動的な筆致で簡潔で明瞭に語る。
黄土に生きる農民をかくも英雄的に描き出し、そのように日本人に思い込ませるだけでも、野上の招待は十分に目標を達成したといえるだろう。それというのも、この文章に接した時、大方の日本人、殊に野上の文学を好むような自らを知識階層と思い込んでいる度し難い痴的ミーハー層は、黄土の民だけでなく、広大な中国の大地に住む純朴で忍耐強い英雄的な農民こそが革命に担い手だった、と思い込むはずだからだ。
つまり、このような農民が熱烈に支持するのだから、やはり毛沢東=共産党は信頼に足る、正義の、道義的で道徳的で倫理的な存在だ。大人、聖人、君子の集団なのだ、と。ならば彼らの唱える日中友好は正しいはず。だから日中友好運動を推し進めよう。日中友好の道に背く岸自民党反動政権は打倒されてしかるべきだ、と。見事なまでの論理的帰結だ。
だが、それは誤解だ。ウソだ。詐術だ。
そもそも毛沢東自らが唱導しているように「革命とは客を招くように、おしとやかで、慎ましいものではない」。断固として。
悪徳地主は悪徳地主で年貢を払えない農民を捕まえてきて、真冬に真っ裸にして後ろ手に縛り上げ地面に正座させ、重い石を膝に載せ、そのうえで頭から冷水をぶっかける「坐冷磚頭」、ぐるぐる巻きに縛り上げ太く鋭いトゲのある竹で編んだ籠に放り込んで蓋をした後、地面を激しく転がす「黒?魚」などで徹底して締め上げる。そこで農民は、この種の悪徳地主たちを「邱要命(人殺しの邱)」「董抽筋(骨削りの董)」「蕭剥皮(皮剥ぎの蕭)」「顧?心(心臓抉りの顧)」など、禍々しい響きを持った渾名で呼ぶことになる。(『蘇南土地改革訪問記』(潘光旦・全慰天 生活・読書・新知三聯書店 1952年)
であればこそ、毛沢東=共産党は農民の支持を取り付けるために、地主を「政治的賎民の筆頭」と位置づけ、農民を徹底動員し、地主を嬲り殺しにすることを教えた。
「大抵は地主を縄で縛り上げ、衆人環視の輪の中に立たせる。誰もが地主を指差して罵り、地主が犯した数限りない罪の清算を求める。これを『控訴』という。口に含んだ水を吹きかけ、髪の毛を引っ張り、服を破るが、この程度では控訴が終わるわけはない。拳や棍棒で激しく殴る。闘争が続けば、その地主はもはや死んだも同じだ。日頃から徳を積むことのなかった悪徳地主はメチャメチャに打ち据えられ息絶えるか、闘争が一段落するやたちまち射殺されてしまう」のであった。(『家有親人在台湾』(万華茹 天津人民出版社 2012年)
こういう現実に考え及ぼそうとしない野上の罪状を無知による共同正犯、という。《QED