【知道中国 1082回】                       一四・五・念六

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上2)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

通訳やら医者やら多くの中国人に自動車とジープを従え、野上が西安から延安に向かった1957年6月、「百花斉放、百家競鳴」のスローガンを掲げた毛沢東の誘いに応じて共産党批判を展開した民主派政治家や知識人に対する猛反撃がはじまった。反右派闘争である。

 

共産党の一党独裁に対する激しい批判の高まりに対し、毛沢東は6月10日の『人民日報』に「これは、なぜか?」と題する論文を発表し、共産党批判者に「少数の右派分子」のレッテルを貼った。「階級闘争は決して収束してはいない」。「少数の右派分子は共産党と労働者階級の指導権に挑戦し、甚だしきは共産党が政権から引き下がることを公然と求めている」が、その目的は、「この機に乗じて、共産党と労働者階級を打ち倒し、社会主義の偉大な事業を打ち倒し、歴史を後退させ、ブルジョワ階級の独裁を招き寄せ、革命が勝利する以前の反植民地状態に中国を引き戻そうとするものだ」。かくして、「我が国家において、階級闘争は依然として進行中であり、我々は階級闘争の視点を以って眼前に展開されている種々の現象を観察し、正しい結論を求めなければならない」と結論づけた。

 

この論文をキッカケに、全国の工場、中央・地方政府機関、学校、メディアなどを舞台に反右派闘争が展開され、多くの罪なき人々が無理やり右派分子に仕立て上げられ、人間以下の惨め極まりない人生を強いられることとなったわけだ。

 

このように極めて激しい政治闘争が展開されていたにもかかわらず、「八時十五分、発車。淡青く晴れた空の彼方に、昔ながらの城壁が森をまえに方形の狭間をつらねているのが見え、たちまち消える。キャベツ、細い竹の支えもそっくり日本と同じ胡瓜、里芋、町の近郊らしくつくられた野菜類は、人種を等しくするものに通じあう味覚をおもわせて、いつも懐かしい」などと、埒もない風景描写を続ける。

 

もっとも、「最西端の最も貧しい地域に、東部に集中する中央政府当局が発した政策や命令が到達するには、二〇年以上もかかった。生活条件の改善にも同じだけの歳月がかかった」。「小さな町はよく知られる大きなモデル都市と比べて、一〇年、二〇年、三〇年と後れをとっている」(『中国最後の証言者たち』欣然 ランダムハウスジャパン 2011年)のであれば、反右派闘争が北京や上海などを舞台に激しく展開されていたとしても、革命の聖地とはいえ黄土高原の山峡にひっそりと佇む田舎町の延安には、まだ及んではいなかったのかもしれない。

 

「中国を訪ねること折があったら、延安に行って見たいとかねがね考えていた」だけに、香港から広州入りし、「中国滞在のスケジュールの希望をたずねられた時、延安行の加えるのを頼んだ」。そこで中国側は野上の希望に沿うべく物々しい準備をしたわけだが、じつは当時、延安まで「どうにか通じているバスは遠来の客を運べるものではなく、西安からの飛行機も、十年ばかりまえの墜落事故で、中共の若い重だった人々を失った用心もあるかして、いまは殆ど飛ばない」。つまり「中共政府がそこにあった頃の関係者は別として、現在では、中国の若い人たちさえ容易には行けない」。当時の延安とは、そんな場所だった。

 

「それだのに私は、この時までいかに手数のかかる要求をしたか心づかなかった」。「もしはじめから私がそうと知っていたら、延安旅行の希望は捨ててしまったに違いない」などと弁解がましくも綴る。だが、その一方で「接待者のいつもの自然な、みじんも勿体つけない仕方で、困難を私に悟らせなかった」から、「手数のかかる要求」をしたなどと、まるで延安旅行が他人事のようだ。

 

だが、「困難を私に悟らせ」ず「手数のかかる要求」を受け入れた目的は、野上の筆に利用価値を認めたからだ。かくて接待者側の狙いのままに、野上は語りはじめる。《QED》