【知道中国 1081回】                一四・五・念二

――「車台はつねに黄土の煙幕に包まれる」(野上1)

「延安紀行」(野上弥生子 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

漱石門下の野上豊一郎と結婚し、『黒い行列』『秀吉と利休』『森』などを著した野上弥生子(明治18=1985年~昭和60=1985年)は、中国を舞台に敗戦に至る時代の日本における知識人をテーマにした『迷路』を書き終えると、訪中し、延安にまで足を延ばしている。

 

昭和32(1957)年6月、古都西安の「朝の清潔でもの静かなプラットホーム」に立つ野上の前に、「西安から一日一本でる銅川行きが待って」いた。

 

西安から北上し、遥か数千年の昔に太公望が釣糸を垂れたことで知られる渭水を渡り、炭坑町の銅川、漢族が自らの始祖と崇め奉る黄帝を祀った黄陵を経て延安への旅である。

 

今から6年前ほどだから、野上の旅から半世紀ほどが過ぎた頃ということになるが、野上とは反対に延安から南下し、黄陵、銅川を経て水が干上がった渭水を越え、西安へ旅したことがある。ちょうど西安は地下鉄工事の真っ最中だった。掘り返された土埃は朦々と舞いあがり、建設機材が挙げる騒音が耳をつんざき、古都の雰囲気などは微塵も感じられない。中国のどこにでもある小汚い地方都市といったところが、古都の第一印象だった。

 

それでも早朝にホテルを抜け出して今に残る城壁の上に立てば、「城の辺に庵して、時折のぼる城の上、城は昔の城ならで、人行き来するおかしさよ」の雰囲気が少しだが味わえただけでなく、都市を中国語で「城市」と表現するワケも実感として伝わって来た。「城」とは城壁を指し、「市」とは商いであり雑踏であり人いきれだ。外敵の侵入を防ぐために築かれた城壁の内側で肩を寄せ、犇めき合いながらの日々の営み・・・眼下の街角に人だかりが見えた。物見高いはなんとやら。早速、その場に駆けつけると、今日一日の仕事にありつこうと集まった人々。話を聞くと、周辺の農村からやってきた出稼ぎ労働者だという。

 

その日の国営土産物店で、こんなことがあった。

 

土産物を冷やかしていると、売り場主任と思しき男が近づいて来て「どこから来たんだ」。そこで「延安から」。「お前日本人だろう。日本人のくせして、なんのワケがあって延安くんだりまで出かけたんだい」。「当たり前じゃないか。革命聖地の見学に決まってるだろう」。すると彼は近くの店員を呼び集め、こちらを指さしながら、「おい、この日本人、革命の聖地見学だとよ」と声を挙げた後、「わっはっは」と高笑いをはじめた。その笑いが合図でもあったかのように、他の店員も「わっはっは」。合唱ならぬ大合笑である。

 

遠路遥々とやってきた日本人が革命聖地を見学してきたのだ。ならば、感謝と労いの一言があってもよさそうなものを、返ってきたのは爆笑の渦。拍子抜けするやら、むかっ腹が立やら。

 

だが、考えてみれば毛沢東にせよ革命の聖地にせよ、彼らにとっては遠い昔の苦い思い出でしかないだろう。ならば、笑いで誤魔化し吹き飛ばすしかなかろう。「奇特な日本人よ」と。あの嘲笑は、辛かった過去を生きた自分を忘れ去るための苦肉の解決策だったのか。

 

さて西安の「朝の清潔でもの静かなプラットホーム」に立ったのは、野上と同行者の日本人2人に加え、通訳、医者、西安の作家協会の3人、「藍いろシャツの逞しい髭面の四十男」と「白と青の横段のメリヤスシャツで、痩せた、色の白い、西安の兄ちゃんといった恰好の若者」の中国人7人。つまり総勢で9人。さらに一行のために自動車とジープまでが貨車に積み込まれた。この先、汽車を降りたら「四十男」が自動車を、「西安の兄ちゃんといった恰好の若者」がジープを運転し、砂塵の舞う悪路を旅することになるわけだ。

 

こうみてくると相当に物々しい旅支度だったようだが、当時の延安旅行は大がかりで周東な準備を必要とするほどに不便極まりない辺鄙な所だったのだろう。それにしても、決して安くはなかったはずの旅行費用は、いったい誰が支払うのか。そこが知りたい。《QED》