【知道中国 1041回】                       一四・二・念三

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島16)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

その2。右派とされた人物を群集の前に引きずり出して苛め抜く手順だが、いま手元に「九三学社中央・光明日報社 批判右派分子儲安平大会 入場券」(写真)がある。

 

儲安平とは、共産党に協力し建国に尽力した中国民主同盟副主席で、民主同盟機関紙の「光明日報」総編集を務めた代表的民主派ジャーナリスト。反右派闘争に先立つ「百花斉放 百家争鳴運動」において、共産党による批判歓迎という甘言にまんまと引っかかり、57年6月に共産党独裁を「党天下」と痛烈に批判した。共産党にとって儲安平はネギを背負ったカモだった。かくて当然のことながら、反右派闘争を進めるうえでこの上ない標的として猛攻撃を加える。まさに飛んで火に入る夏の虫。雉も鳴かずば撃たれまい、である。

 

儲安平の「党天下」のみならず、民主派による「与野党で順番で政務を執るべきだ」「中国をスターリンのような人間には任せられない」などの猛批判に、毛沢東はいきり立ち徹底攻反撃に出た。その姿に、共産党批判者を焙り出すために仕組んだ陰謀だとの声が上がるや、毛沢東は共産党批判者を蛇に喩え、「これは蛇を穴の中から誘い出すためだ。陰謀ではない。陽謀だ」と嘯いた。尖閣への強硬姿勢も、「陰謀ではない。陽謀」なのか。

 

儲安平のその後だが、就任70日で総編集を解雇され、以後は惨めな生活を強いられた。文革では紅衛兵に襲撃され、66年のある闇夜に行方不明となる。これまた当然のように、死体はみつかっていない。

 

そこで入場券に戻るが、その左半分に大会開催場所と時間が明示され、「この券を必ず持参のこと。時間厳守」とある。右側には「主要発言者と演題」との題字の下に儲安平の友人やら同僚の名前にと共に、誰がどんな内容で批判するかが列挙されている。

 

批判される者にとって日頃から信頼し親しくしていた同僚などからの攻撃は、精神的に大きなダメージとなるはず。一方、批判する側に立たされた者にとって、いきり立つ群集を前にすれば逡巡する間もなく、自らを守るためには否も応もなく過激な言辞を繰り返さざるをえない。批判される者の心は余りの屈辱に耐えられず、完膚なきまでに打ちのめされる。一方の批判する側は心に葛藤を抱えながらも、その場の空気に押し流され、心ならずも批判パフォーマンスを荒唐無稽なまでに残酷に演じてしまう。つい先ほどまでは心を許す仲間であったはずなのに、もはや立場は大逆転だ。批判される者はもちろん、批判する者も心はズタズタ。ならば群集にとって批判大会は娯楽だったに違いない。批判大会は悲劇と喜劇とが連続する一大演芸来会だったのだ。他人の不幸は蜜の味、ともいいます。

 

その3。反右派闘争で大活躍した人物には賞状が贈られている。いま手元にある証拠写真をみておくと、横長の紙の上部中央に風に靡く赤旗を背景に毛沢東の横顔が掲げられ、賞状の右半分に「李冠群同志は反右派闘争において党と社会主義を守護する立場を明確に表明し、工作において抜群の成績を挙げたので、特にここに賞す」と中文で、左半分には同趣旨がロシア文で記されている。李冠群は、さぞやハデに立ち回ったんだろうなァ。

 

その4。映画監督の陳凱歌(1952年生)は幼少期に面倒をみてくれたバアヤさんを思い出し、「昔から中国では、押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった。寛容など考えられない。『相手が使った方法で、相手の身を治める』というものだ。そのため弾圧そのものは、子々孫々なくなりはしない。ただ相手が入れ替わるだけだ。・・・幼い子供にこの明快な道理を教えてくれた。彼女の目の確かさと、見識のほどが知れよう。しかし、当時の風潮は、『敵に対しては厳寒のように冷たく無情に』というものだった」(『私の紅衛兵時代』講談社現代新書 1990年)と回想している。

 

「この少年少女たち」も、「正義を・・・もう頭には報復しかなかった」のだろうか。《QED》