【知道中国 1078回】 一四・五・仲四
――「そして治療は労働者は全部無料ですよ」(木下6)
「近くて遠い国、北鮮」(木下順二『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年
村岡のダボラは、帰還事業に専心し、『新潟協力会ニュウス』で編集責任者を務めた小島晴則が「二度とはありえぬ歴史の記録として」出版した『新潟協力会ニュウス』の創刊号(=昭和35年3月1日)から五周年特集号(=昭和39年12月25日)までを復刻した『幻の祖国に旅立った人々 北朝鮮帰国事業の記録』(高木書房 平成26年)に収められている。同紙の記事を追ってみると、当時、どのような人物が率先して帰国事業に協力し、日本人の北朝鮮誤解を誘導していたのかを知ることが出来る。木下は、同紙に登場する人物共々、北朝鮮に対する幻想を振りまいた責任、いや犯罪に確実に手を染めていたのだ。
ここで参考までに、『新潟協力会ニュウス』に登場し、「北朝鮮帰国事業」に協力した主な人物の名前を、同紙紙面に登場した年代順に列記しておこう。なお、肩書は当時のもの。
北村一男新潟県知事、山崎和雄新潟県議会議長、渡辺浩太郎新潟市長、藤田友治新潟市議会議長、川原乙松日朝協会新潟支部会長、北林谷栄(劇団民芸)、岩本信行衆議院議員(自民党)・在日朝鮮人帰国協力会代表委員、帆足計衆議院議員(社会党)、高橋保新潟県教職員組合執行委員長、村田春子新潟市連合婦人会会長、西垣二郎新潟県民生部長、青木松男新潟市議会厚生常任委員長、鈴木武男新潟県副知事、苅部長藏新潟商工会議所会頭、望月優子(映画女優)、高木武三郎日石代表、稲葉修自民党新潟県連代表、阿部考治新潟市民生部長、内山由蔵長岡市長、窪田繁雄新津市長、小泉純也自民党副幹事長(帰国協力会代表委員)、田辺繁雄日赤副社長・・・まだまだ続くが、この辺で切り上げておく。なぜなら際限がないからだ。新潟だけが突出して盛り上がっていたわけでもあるまい。おそらく、あの当時は国を挙げて舞い上がっていたということだろう。いまから振り返れば、いや当時すでに、ここに列記した人々は北朝鮮の国家犯罪に加担していたことになる。罪深い話だ。
それにしても、である。思いがけないところで、反原発元首相の父親である小泉純也自民党副幹事長とは・・・。「ブルータス、お前もか」ではなく、「ブルータス、お前かよ~」。いや「ブルータス、お前だな」。
『新潟協力会ニュウス』には、いま読み返せば“悲痛”としかいいようのない文章に満ちているが、その代表例を2つ紹介しておきたい。
先ずは「私は祖国に帰って夢のようです ――張さん(島田)からの便り――」である。「私は、今、異国で渇望していた、母なる祖国、――朝鮮民主主義人民共和国の温かい懐に抱かれ、祖国の同胞達の物心両面の真心のこもつた幇助を戴きながら楽しい新生活を営んで居ります」。かくして、「祖国の隆盛発展する姿がハツキリとみえます。このような祖国に抱かれた私は、私のもつている智慧、技術を余すところなく発揮して共産主義社会のために捧げます」と。「張さん(島田)」の勇ましく雄々しい心意気が、余りにも哀しい。
「差別のない朝鮮、私はこのように生活しています」と題する「夫に従って帰国した一日本人妻の手記」は、「私は朝鮮にきて清津でも、ここ民主首都平壌でも隣近所の奥さんや、職場の人から『日本の人ですか、それは大変でしたね、本当に苦労なさいました』と慰められるたびに、思わず目頭が熱くなるのでした」。病院でも「東ドイツやソビエトの先進医学が普及していて食事のカロリーから量の加減など、その時の病状に応じてでるのはいうまでもなく〔中略〕重ねて徹底した無償医療の完全さを感心したのでした。/したがつて私は何の心配もなく、朗らかに明るく仂きに出られることの幸せをつくづく有難いと思つております。差別のない朝鮮、私はこのように生活しています」と綴られ、最後は「日朝婦人の一層の友好発展万才」と結ばれている。「思わず目頭が熱くなる」文章ではないか。
もはや何をかいわんや・・・ウソで塗り固められていた虚妄の社会だったのだ。《QED》