【知道中国 1076回】 一四・五・十
――「そして治療は労働者は全部無料ですよ」(木下4)
「近くて遠い国、北鮮」(木下順二『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年
平壌入りを前にした新義州で、「きれいな看護婦さんが一人」とは、お膳立てが整いすぎていないだろうか・・・いや、これを下衆の勘繰りというものか。
閑話休題。
「そしてその日のよるの、〔中略〕九時五十分、平壌に着きました」。もちろん、「平和委と、十周年記念事業実行委と、そして市民とによる盛大な駅頭の出迎え」である。とはいうものの宿舎は急造だったようで、「ホテルといっても、職業総同盟の事務所だったものに調度を入れただけのもの」だった。だが木下は「いわば間にあわせのこの宿舎に泊めてもらったことで、どれだけ朝鮮の人のきもちと朝鮮の実情がくみとれたか知れないと思っています」と綴る。
床には三種類の絨毯がパッチワーク状に敷かれ、電線は裸状態。「食堂にならべられた約二十人前のコップにしても、薄手の小さいのがあるかと思えば、部の厚い気泡のはいった、びん詰めの古ではないかと思われるものがある。〔中略〕すべては足りない中でせい一杯の手をつくし心をつくしたという感じです」
そこで朝鮮側が口を切る。「まだまだ朝鮮は足りないことだらけなのですよ」。だが、「皆さんをお迎えしたいという誠意だけは皆一杯なのですが、何しろあれだけ激しい闘いをやったあとなのですから、いくら新しい建設が進んでいるといっても、までお泊めする宿がこんな状態なのです。〔中略〕皆さんの御不自由はよくわかるのですが。それに皆さんを接待する若い人たちも、誠意だけはほんとうにせい一杯なのですが、何しろ外国のお客さんをお迎えすることに馴れていないのですから、どうか不行届きは遠慮なくそういって下さい」と、じつに謙虚である。
そうこうしているうちに、「白い診察衣を着た平壌医科大学のお医者さんが、さっきとは別の看護婦さんを連れてはいって来られました。私は毎日朝と昼と晩とに廻って来ますから、少しでも具合の悪いかたは申し出て下さい。どうか遠慮しないで」と。
まさに至れり尽くせりの接待ぶりである。木下ならずとも、感激しないわけにはいかない。この時点で、洗脳工作はほぼ完了ということだろうか。
そこで、次なる洗脳工程に移る。
「平壌と新義州のほぼまんなかを北東に少しはいって、国営亀城地下紡績工場を訪れた」。「従業員約二千人、一万錘を超える、ふつうと何の変りもない大きな紡績工場が、岩山の横っ腹をくりぬいてそのなかにすっぽりと納められている」。朝鮮戦争中の1952年4月に、「最初はわずか六人の紡績技能者を中心に、「手掘りとダイナマイトで工事がはじめられ」、「爆撃を受けた地上工場のこわれた機械を拾って来、埋めてあって錆びついた部品を掘り出し、それらを牛車に積んでここに集めて何とか組み立てながら」と、“無から有を生み出す”ような苦心談が続いたと思ったら、しばらくして話は金日成に行き着く。これ、定石。
「停戦協定成立のあと、やっと操業を開始した直後に金日成首相がここを訪れた。そしてこの工場は非文化的で設備が悪いといわれた。操業をやめてでも労働者の文化施設を高めろといわれた。そこで直ちに二ヵ月間操業を停止して改善したんです」。その結果、「今では、三ヵ年計画の中でことし上半期は超過完遂ですし、第一・四半期には内閣優勝旗をとっています」。かくして、「金日成首相のことばをまもれば必ずいい成果が生めるという確信をわれわれは持った」そうだ。
だが歴史は、「金日成首相のことばをまも」ったお蔭で“地上の楽園”が一向に出現しないことを教えている。ともあれ、木下の歯の浮くような金日成賛歌は続く。《QED》