【知道中国 1077回】 一四・五・仲二
――「そして治療は労働者は全部無料ですよ」(木下5)
「近くて遠い国、北鮮」(木下順二『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年
「朝鮮の人たちが金日成首相に対して抱いている大きな信頼については、ほかにもしばしば見聞きする機会がありました。確かに異常な能力の持ち主のぼくと二歳しか年のちがわないこの指導者とは、ぼくも短時間ながらことばをかわしてきわめていい印象を得た」そうだが、ここまで断定的に木下に語らせれば、先ずは洗脳工作成功といえるだろう。
地下工場見学の夜、ここを視察した際に金日成首相が口にしたことば――「女性労働者を(結婚しても)職場に定着させなければ軽工業は成功しない」―-をテーマにしたとかいう創作劇「美しい生活」を見せられる。舞台で唱われた「きょうも工場で責任をはたして家に帰る。顔には紅の代わりに油がついているが、未来にかがやくそのひとみ。私はこの国の主人公だ」といった歌を聞いて、「歌も踊りもしょして芝居も、ほとんど全部が各サークル員の集団討議でつくられたものである由」とか。最早なにをかいわんや、である。
翌日、その労働者たちとの座談会を終え、昨日の「歌の文句は、文句だけ聞くとそらぞらしいように思えるかもしれないけれども、ここに集まってくれたはたち前後のこの娘さんたちは、やはり大体においてこの歌のようなきもちで毎日を送っている」と。こんな印象を持ったそうだ。
どのような印象を持とうが木下の勝手ではある。だが帰国後に木下が綴った文章が一般の日本人に読まれることで、“地上の楽園”といった北朝鮮の宣伝が増幅されたことは間違いないだろう。
昭和30年(1955年)、木下は「コチンコチンに緊張」しながら金日成独裁下の「朝鮮北部」に入り、「肌からじかに喰いこんでくるような荒々しい感動」を感じ、デタラメ極まりない宣伝文を発表した。4年後の昭和34(59)年12月14日、かの悪名高い帰国事業によって、「朝鮮北部」に存在していると喧伝されていた“地上の楽園”に向け、「第一次帰還船」が新潟港から出港した。それから3ヶ月半ほどが過ぎた翌年の昭和35(60)年3月1日、新潟県在日朝鮮人帰国協力会は「新潟協力会ニュウス」紙を発刊した。創刊号に、「共同通信記者 村岡博人」なる人物による報告「朝鮮を訪ねて」が掲載されている。
そこには、木下の文章に共通する驚愕のウソが満載されていた。当時の日本メディアによるデタラメ極まりない北朝鮮報道が北朝鮮による国家犯罪である拉致の捜査を妨害し、現在に至っても解決を妨げていることを考えれば、やはり村岡も木下同様に“罪人”の1人だ。そこで木下から少し離れるが、村岡の報告の一端を参考のために紹介しておきたい。
■「(帰国者の)みんな共通して言っている事は、『この感激を日本に居る人達に是非伝いてくれ、そして、日本の歓送して下さつた方に宜しく伝いて下さい』と言っていました」
■「帰つた帰国者達は、みんな各々住宅が与えられ、工業で働く仂く労仂者は五階建てのアパート、農村に行く人もオンドル付きの住宅が与へられます。そして、食事までちゃんと用意されており、帰国者達はまだ一回も自分で食事を作つていない、といっていました」
■(福島からの帰国者が用意されたアパートに入ると)「壺があつたので中をみたら、そこには何と“白い米”が一杯事入つていた」。彼は「日本に居るとき、毎日毎日ビクビクして過ごして来ただけにこれをみたときは本当に泣けてしまった」と。そこで「僕達もこの話を聞いたとき、一緒に居た記者も、これにはみんな“もらい泣き”をした程です」
■「(金日成首相は)何か権力をふり廻す偉ぶつた人、という様に思いますが、全くその逆で、写真でもみられる通り、肥つた、しかもザツクバランな人です。そして非常な勉強家です」・・・いったい「非常な勉強家」だと誰が確かめたのだ。おいッ、村岡。《QED》