【知道中国 1042回】                       一四・二・念七

 

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島17)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

「操縦者も、スチュワーデスも中国人である」双発のソ連製中型機で北京へ。広州を発ったのは午後2時。長沙、武漢、鄭州の3空港で燃料を補給し、北京着は午後10時半。いまでは考えられないほどの長旅ではあるが、中島は「旅客機は、無造作に離陸し、二、一〇〇メートルくらいの高さにのぼると、そのまま少しのゆれもなく水平飛行に移る。無造作のようだが、少しのあぶなげも感じられない」と意気軒高の態だ。

 

さて「無造作のようだが、少しのあぶなげも感じられない」のは操縦士の腕なのか。それともソ連製中型機の性能のゆえなのか。どどちらにせよ、やはり社会主義国は素晴らしいといいたいのだろう。いいたい奴にはいわせておけ。

 

途中、武漢辺りで長江に架かる武漢長江大橋を目にする。20日ほど前の10月15日に第1次五カ年計画の目玉としてソ連の全面的援助を得て1950年に着工。上段が歩道付きの片側2車線の自動車道路、下段の複線は北京と広州とを結ぶ京広線が走る。中ソ友好と新中国躍進の象徴的建造物として内外に大いに喧伝されたものだ。下流の南京で南京長江大橋の工事が始まったのは1960年で完成は文革真っ盛りの66年。こちらは毛沢東思想が掲げる「自力更生」のシンボルとして、大いに持てはやされたものだ。とはいうものの、どちらも時代の流れの中で、いまや交通障害の元凶とされてしまった。無用の長物・・・以下。

 

「武漢で長江に橋がかかった、ということは、中国の歴史の中でも大きな意味がある。夕日に光る長江を空から見ると、洪水のあとらしい池沼がたくさん残っている。新しい中国は、長江の治水にも成功した」と感激する。だが「治水にも成功した」などと軽々しく断定しない方がいい。事実、98年の大洪水は54年以来の被害を流域にもたらしている。

 

北京空港に到着した足で北京飯店に向かった。待ち構えていたのは井上靖、多田裕計、十返肇、中野重治、堀田善衛、本多秋五、山本健吉ら「日本文芸家協会によって正式に選ばれた七人の作家、批評家」で構成された第二次中国訪中日本文学代表団の面々で、彼らは日本文芸家協会と中国作家協会とで発表する共同声明の文案作りに腐心していた。

 

当時の日中関係は双方の民間機関――日本側は元首相の片山哲を会長に、中島を理事長に昭和31(1956)年に発足した日中文化交流協会、中国側は中国対外文化協会――を主たる窓口に絵画、彫刻、建築、映画、演劇、音楽、文学、スポーツなどの交流を積み上げていくことで、「各種の障害を克服してさらに文化交流を拡大し、その民間協定が政府間協定にまで発展すること」(昭和32=1957年、浅沼・張共同声明)を目指していた。これを「積み上げ方式」と呼んだが、すべてに政治が優先する中国で純然たる民間機関が存在するわけはなく、中国対外文化協会もまた共産党政権の文化・スポーツ部門に統率された組織であることは当然のことだった。

 

昭和31(1957)年11月10日、日本文芸家協会は「積み上げ方式」による交流の一環として中国作家協会と共同声明を発表するが、それには①双方の文学者は「両国文化の諸問題について意見を交換することを得たことを深く喜ぶ」。②双方の文化は「互いに密接な関連によって今日の開花を見たものであって、現下の特殊な政治情勢は、この交流の必要を一層我々に痛感させしめる」。③双方の文学者は「両国文化の将来のために、文学者および文学作品の交流をより一層活潑ならしめることの必要なことに完全な意見の一致を見、それが実現のため、あらゆる努力を惜しまないことを期する」―-と記されている。因みに、「現下の特殊な政治情勢」とは、岸政権による反中・親蔣介石の外交路線を指す。

 

この声明に署名した「日本文芸家協会によって正式に選ばれた七人の作家、批評家」は、中国全土で荒れ狂う反右派闘争の衝撃の深さに、さて、思いを巡らさなかったのか。《QED》