【知道中国 1074回】 一四・五・初六
――「そして治療は労働者は全部無料ですよ」(木下2)
「近くて遠い国、北鮮」(木下順二『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年
地下劇場からの「あのごつごつしたコンクリの段々を踏んで、薄暗い坑道をあがる。外へ出ると、まぶしいような夕陽の光です。するとその夕空に、いきなり高々と巨大な国立劇場が見上げられました」。「平壌全市、大同江の向こう側の、工場地区に計画されている南平壌まで、一ぼうに見わたせるこの高みに、今高々とそびえたっているこの大劇場は、一昨年の停戦協定が成立するや否や、ちょうど地下劇場の仕事を引きつぐように着工され、去年の春に開場された。はるかにうねうねとこの丘へ登る道の途中から眺めれば、まさに壮麗ということばがあてはまります」と、木下の大賛辞は続く。
だが、木下の感動は、この程度では収まりそうにない。
「朝鮮の人たちが歯をくいしばり身をまげて苛烈な戦火の中を守りぬいた朝鮮の文化は、いま高々とこの丘の上に花咲いている。しかも戦火がおさまるや直ちに着工してこの高みに堂々とこれをぶっ建てたということは単に文化を重視するという以上に、また彼らの能力を証明するという以上に、この国の政府と人民とが、朝鮮の大地の上に再び空襲などという悲惨な事態を決して起こさせないという、平和への強い意志と自信をもっていることを示すものといえるでしょう」。かくして「いずれにせよ、今日北部朝鮮にみなぎっている荒々しい建設への息吹は、一歩足をそこへふみ入れれば、じかにこっちのからだへ喰い入ってくるばかりの激しさです」ということになるわけだ。
文学者のカンバンを掲げメシを食らっている人間が書いたとも思えないほどに、陳腐極まりない表現だ。多分、本人は大真面目に書いたのだろうが、こんなものを読まされた読者にとっては大、大、大迷惑だったと思う。おそらく当時、木下が「北部朝鮮」と表現する金日成に率いられた北朝鮮に招待されてノコノコと出掛けて行った進歩派諸氏は、帰国後に木下と同じようなことを垂れ流したに違いない。ウソも百回いえば真実になってしまう。そこに北朝鮮の狙いがあったということだろう。
ここで木下の筆は、再び「コチンコチンに緊張して」乗り込んだ新義州での顛末に戻る。
「明治四十三年八月二十九日から、昭和二十年のあの八月十五日まで、その長い三十六年間、『植民地』朝鮮に対する日本の『統治』は、基本的な支配政策から毎日の生活の隅々に至るまで、徹底的に陰惨残虐なものであったのです」としたうえで、「日本に対する朝鮮の人々の憎しみがどれだけ深いものか、それはわれわれの想像もつかないほどだ。こんにち朝鮮の人たちと会う時、われわれはどうしても面をあげてまともに相手の顔を見ることができないわけです」・・・だから、どうだと言いたいのだろうか。
新義州の駅での停車中、「コチンコチンに緊張して」いる木下らが案内された駅構内の「ガランとした部屋の高い白い壁には、ソ同盟、中国の指導者たち、それと金日成首相の肖像がぐるりを掛けられている」。やがて朝鮮側が口を開く。「その人々の物静かな調子は、だんだん全体の緊張をやわらげてくれました」。だが「やわらかな口調で語られる話のなかみは、しかしおよそ考えることができないほど凄惨苛烈な戦闘の話」だったそうだ。
前線に赴いている男に代わって、重労働は女が担う。「田植や耕作をこれも女の手で夜間にやり、工場、劇場は地下にもぐり、学校、病院は疎開して、生産とともに文化、教育の活動も、ほとんど水準をさげずに中断なく続けられ」、「停戦になるや、それまでの抵抗におとらぬ激しさで、何もなくなった野原の上に、すぐ建設がはじめられた」。かくて「人民民主主義国ではどこでもそうであるように、戦後の建設はここでもまず病院と教育・文化施設、それから住宅、その住宅(労働者アパート)の建設が、現在の目標だということでした」と。北側の大ボラを、文学者の木下は、バカ丁寧に自動筆記し続けたのである。《QED》