【知道中国 1073回】                       一四・五・初四

――「そして治療は労働者は全部無料ですよ」(木下1)

「近くて遠い国、北鮮」(木下順二『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年

戯曲の「夕鶴」で知られる劇作家の木下順二(大正3=1914年~平成18=06年)は昭和30(1955)年4月にヘルシンキで開かれた世界平和大会に出席した後、200日ほどを掛けヨーロッパ各地、ソ連、中国を廻ったが、その際、北朝鮮に10日間ほど滞在し、「近くて遠い国、北鮮」を記している。

 

当時、この手の“進歩派人士”の類が如何にデタラメな情報を垂れ流し、日本人の考えを捻じ曲げていたかを知るうえで貴重な参考になろうかと思い、中国とは直接的に関係はないが、木下の虚言を敢えて取りあげてみた。そこで、これまで扱った柳田から中野までの一連の犯罪的言動を思い起こしつつ読んで戴きたい。

 

先ずは些か早とちりの誹りは免れないとは思うが、結論を言っておけば、やはり柳田から中野までの方々とゴ同様に、バカにつける薬はないということ。だが、こういったバカに誑かされ続けた世間も悪い。いや、悪すぎる。悪いのは朝日新聞だけではなかった。

 

先ず木下は、「ソ同盟、中国、朝鮮と廻ったが、そのうちで最も強烈な印象を与えられた国は、朝鮮でした。正しくは朝鮮民主主義人民共和国、日本でいわゆる北鮮。滞在十日間。肌からじかに喰いこんでくるような荒々しい感動がそこにはあった」と、初っ端から舞い上がってしまっている。なんとも恥ずかし気もなく大仰だ。さて、「肌からじかに喰いこんでくるような荒々しい感動」とは、いったいどのような感動なのか。興味津々、である。

 

当時、北京と平壌との間は週二便の国際列車で結ばれていた。その列車に朝乗り込むと、「翌朝中国最後の駅の安東につきます」。その先の鴨緑江の流れを越えれば、「朝鮮最初の駅新義州までわずか二十分」だ。そこで「われわれは、実は、コチンコチンに緊張してこの新義州に乗りこんだ」というのだが、頭の中まで「コチンコチンに緊張して」いたらしく、思考回路は完全に機能停止状態で、北朝鮮側のダボラ、デマ、デタラメ、つまり洗脳工作に見事に嵌ってしまった。北朝鮮滞在中、木下は完全に自動筆記装置と化した。かくて「いきなり平壌の地下劇場のはなしをしましょう」と、自動筆記装置のスイッチ・オン。

 

平壌の西郊に位置するモランボン丘にある巨大な地下劇場に案内された。朝鮮戦争が激しく戦われていたにもかかわらず、僅か4ヶ月ほどの短期間で収容人員800人余の劇場を地下深くに完成させた。連日、満員状態の中で芝居が熱演される。「要するに空襲退避だろうと考える人があるかもしれません。ぼくもはじめはそう思った」。だが、ここは「単に『逃げ込む場所』ではなかったということは、その後各地の壮大な地下劇場を見て廻ったなかで、はっきりとぼくにわかって来ました」・・・へーッ、そうですか。

 

「戦争中のぼくたちには『逃げ込むところ』であった地下壕が、朝鮮の人たちにとっては、すなわちそこで生き、そこでものをつくり出す場所であった」。「あの狭い国土の隅々まで、ほとんどすきまのなく投げおろされる爆弾焼夷弾に対して、北部朝鮮の人たちは、ぼくには想像もできないエネルギーであちこちに大きな地下工場をつくり地下劇場をつくり、さまざまな生産活動を必死になって続けながら、『文化の火』をも絶やさずそこで守り通したのです」・・・フムフム。それで。

 

であればこそ巨大地下劇場やら工場とやらの施設は、「この国の政府と人民とが、朝鮮の大地の上に再び空襲などという悲惨な事態を決して起こさせないという、平和への強い意志と自信をもっていることを示すものといえるでしょう」・・・なるほど。

 

かくて、「平壌の都市計画については今触れているゆとりがありませんが、いずれにせよ、今日北部朝鮮にみなぎっている荒々しい建設への息吹は、一歩足をそこへふむこみ入れれば、じかにこっちのからだへ喰い入ってくるばかりの激しさです」・・・だとさ。《QED》