【知道中国 1072回】                       一四・五・初二

――「大中国は全国土、全人民をあげてわき立っている最中なのだ」(中野15)

「中国の旅」(中野重治『世界の旅 8』中央公論社 昭和38年)

 

中野は「そういう犯罪」を「ひとつも知らずに中国へやって」きたにもかかわらず、「とにかくそういう犯罪の跡」へ案内され、初めて「そういう犯罪」を知ると口にする。だが、「ひとつも知らずに中国へやって」きた中野が、なぜ「そういう犯罪」を知ることが出来るのか。誰かが、それとなく、中野の耳に吹き込んだとしか考えられないだろう。その誰かとは、いったい誰なのか。

 

中野は中国語が出来ない。であれば街で出くわした市井の中国人から知らされることはないだろうし、ならば常識的に考えれば、中国側通訳か同行日本人仲間ということになる。

 

広州で、辛亥革命へ向けての武装蜂起で犠牲になった72人を顕彰する記念碑を参観した折のこと。「私たちは案内されて黄花岡の七十二烈士の墓へまいり、山へのぼって博物館になっている鎮海楼を見、そしてその前にひろがった市民運動場を見た」。その際、通訳は「そこが以前は刑場で、たくさんの民主人士が処刑されたことにふれて語ったが、日本人のことにはふれなかった」

 

だが、その通訳の韓北屏と中野と行動を共にした小説家の堀田善衛とは旧知の間柄で、「かれらはかれらだけの特別の親しさでもべちゃべちゃとしゃべりあっていた。しかしその後どこかで堀田が洩らしたところからすると、その堀田にも、その種のことに韓は一言半句もふれなかったらしかった」。さらに中野は、「『だけれど、あすこでたくさん、日本の憲兵やなんかが中国人を殺したということは事実だな、かれらはいわんけどね・・・・・』/それが一列になってしきりに頭へくる。それが整理がつかない」と続ける。

 

前後の文脈から判断して、「だけれど、あすこでたくさん、日本の憲兵やなんかが中国人を殺したということは事実だな、かれらはいわんけどね・・・・・」と口にしたのは堀田であり、「それが一列になってしきりに頭へくる。それが整理がつかない」のは中野ということになるだろう。ならば堀田は、どこかから「日本の憲兵やなんかが中国人を殺した」という話を聞き込んできたことになる。はたして、それは事実だろうか。

 

なにがなんだか判らないままに、中野は「しかしとにかく、そういう犯罪の跡へ、そこへ案内されたからではあったがわれわれは泊まりにきて、そこで飯を食って、そして風呂をつかってほっとしているというのがわれわれの事実だということはまちがいない。盗みをしたものは盗んだ家をよけて通るという言葉をむかし読んだことがあったが、知らずに、また知らされずに、その跡その跡と廻っているというのがわれわれ自身の事実なわけだった」と綴り、中野は「そういう犯罪」を反省して見せる。

 

確かに中野は「知らずに、また知らされずに、その跡その跡と廻っている」のかも知れない。だが、案内する中国側は十二分に計算していたに違いない。いや、そうだったはずだ。そこが「犯罪の跡」であったかどうかは別に、日本人を「そういう犯罪の跡へ」案内し、そこに宿泊させ、「飯を食」わせ、そして「風呂につか」らせ「ほっと」させる。中野は、そこに如何なる因縁があるのかも判らない。ただ中国側に案内されるがままに、「その跡その跡と廻っている」に過ぎない。

 

その後、中国側はそれとなく、中野が寛いだ場所で戦争中の日本側の「犯罪の跡」であることを知らせる。かくして中野は自らの不明を恥じる風を綴り、その恥を日本人に伝えるだけでなく、中国側にいわれるがままに「犯罪」なるものを“告発”しただろう。

 

中国側が示す「犯罪」なるものが真実である確証はない。だが、それを鵜呑みにした中野は帰国後に中国側の主張のままに日本側の「犯罪」を喧伝する。中国側の思う壺である。

 

旅の恥は掻き捨て。だが、旅先の無知は犯罪だ。無知な中野は・・・無恥蒙昧。《QED》