【知道中国 1043回】                       一四・三・初一

 

――「全行程を通じて、三びきのハエを見ただけであった」(中島18)

「点描・新しい中国」(中島健蔵 『世界紀行文学全集』修道社 昭和46年)

 

「わたくしも、とにかく文学者の一人である。“人間”を感じるのが仕事である」と自らを任ずる中島は、「公式会談がすんで、ほんのわずかの間だが、くつろいだ気もちになった時の印象からいうと、山本君や十返君の報告とは、だいぶちがっていた」と記す。これは帰国後の一行についての言及だが、反右派闘争の前段であった「百花斉放 百家争鳴」運動も含め、民主派知識人を標的にした一連の政治運動について、日本側参加者の中でも意見の食い違いがあったようだ。「山本君や十返君」とわざわざ名指ししていることから判断すると、この2人が根掘り葉掘り中国側に質問を浴びせ、説明を求めたのだろう。

 

そこで中島だが、反右派運動を「整風運動」と捉え、次のように説明している。

 

「整風運動の必要を説いたのは政府であったかもしれない。しかし、一々の批判は、民衆の中から起こっているのであろう。もちろん、思想も問題であろう。しかし、中国の実状を察すると、思想改造はまさに進行中らしかったのである。解放前から仕事をしていた知識人の中には、現在の政策に心から賛成協力し、その組織の有力な支持者になっていながら、なお自分の頭の中に観念論の名残がのこっている、と告白した人さえいる。しかし、反省によって古いものから手を切ろうとしている人間が、あっさりと整風運動の槍玉にあがって失脚するであろうか。現実的にあらわれた失敗によって批判されることはあろう。これは整風運動よりは責任問題に属する」

 

つまり中島は、反右派闘争における批判は毛沢東=共産党が煽動・操作しているわけではなく、「民衆の中から起こっている」。共産党政権の「現在の政策に心から賛成協力し」ながら、「なお頭の中に観念論の名残」を留めている者がいる。だから「思想改造」を進め、「反省によって古いものから手を切ろうとしている人間」を手助けしているだけだ。失脚した者は、「現実的にあらわれた失敗によって」失脚した――といいたいのだろう。

 

さらに「周囲の人間から“イヤな奴”と思われ、もしもその人物がだれかによって批判されるや否や、多くの人間がそれに加勢し、あるいは賛同し、その結果彼が失脚することに対して、大多数の人間が同情する気になれない、という、致命的な弱点の方が、大きく働いているのではないか」と続ける。これではまるで常日頃から「周囲の人間から“イヤな奴”と思われ」ているからこそ失脚して当然、ということになる。まあ「周囲の人間から“イヤな奴”と思われ」、批判されても「大多数の人間が同情する気になれな」い幹部が少なくないことも事実。昔から「官逼民反(官が横暴だから民は反)」してきたのだから。

 

ここで参考までに、中国古代史研究家の楊寛の反右派闘争に対する考えを引用しておきたい。(『歴史激流 楊寛自伝 ある歴史学者の軌跡』東京大学出版会 1995年)

 

「いわゆる右派分子は多くの場合、右派的な言論などいっさい口にしておらず、実際は実権を握る者が運動に名を借りて、意に満たぬ配下の者を陥れた結果に過ぎない、と。つまりすべてが冤罪なのである」。反右派闘争によって「人々は、共産党が指導する無産階級専制という政権の本質を、より深く認識できるようになった」。「この政権は・・・権力が極度に集中しているのである。こうして、上から下への家父長制的な統治体制が形作られているのであった」・・・「正論」は延々と続くが紙幅の関係で、この辺に止めておく。

やはり中島の主張は、共産党の公式的で身勝手な見解のオウム返しに過ぎなかった。

 

それにしても、である。毛沢東=共産党に対する卑屈極まりない態度、チョー提灯持ち的振る舞いには呆れるばかりだ。「わたくしも、とにかく文学者の一人である。“人間”を感じるのが仕事である」との中島の自己規定(いや誇大広告)に至っては、もはや開いた口が塞がらない。「人間”を感じるのが仕事」って・・・ふ~ん、へ~、それで~。《QED》