【知道中国 403回】 一〇・六・仲三
――孫呉の夜の街に「足療」を探すも・・・
愛国主義教育基地探訪(4-11)
北大荒の3文字からは否が応でも文革、紅衛兵、下放を連想し、「大後退の10年」「動乱の10年」と形容される文革に思い至るに違いない。大方の大人の中国人なら、文革など思い出したくもないだろう。だが、そのマイナス・イメージを逆手に取って企業名にしてしまうとは、小憎らしいばかりの企業戦略だ。確かに、北大荒集団の名前を一度聞いたら、文革体験者は忘れようにも忘れられないはず。だが、苦痛・苦闘の日々は暫しの時が過ぎれば淡い思い出と化すこともまた事実。文革という悪夢を最新ビジネスに取り入れようとは、なんとも破天荒で天晴な商魂。流石に商業民族だけのことはある。恐れ入るばかりだ。
孫呉に向かって走る幹線道路の左手には畑、その向こうにはなだらかな丘陵地帯が続き、道路からは丘陵地帯が邪魔をして見えないが、さらにその奥を黒龍江が流れている。
いまから65年ほど昔の昭和20年8月9日夜、ソ連軍戦車2個旅団、狙撃3個師団で編成されたソ連第2極東方面軍は黒龍江を強行渡河した。この一帯ではソ連軍戦車の轟音が唸りを挙げ、戦闘機が爆音を轟かせ、猛禽と化したソ連兵は略奪と凌辱の限りを尽す。逃げ惑うしかない開拓民は筆舌に尽し難い緊張と恐怖の日々を過ごす。阿鼻叫喚の地獄絵図さながらの世界が繰り広げられたことだろう。
黒河を発って1時間半余り。車は孫呉の街に近づく。老朽化した平屋の民家が立ち並ぶが、その様は満洲国当時を記録したセピア色の写真に残る開拓民の住まいと同じ。
60年以上も変化のない生活が営まれているわけでもなかろうと思うが、老朽家屋の壁に丸で囲まれた「折」の文字がみえる。ということは、ほどなく再開発のために解体されるのだ。やけに広いメイン・ストリートは整備中で、建設中の高層ビルもちらほら。この街にも経済成長の波が確実に押し寄せているようだが、家電量販店やスーパーマーケットなどは全国規模のチェーン店というわけではない。ならば大手企業が進出を手控えるほどに市場規模が小さいのか、それとも、この街の経済成長は緒に就いたばかりということなのか。
この街を中心に広がる孫呉県の広さは4500平方キロほど。人口規模は関東軍最大駐屯時と同規模の10万人ほど。木材、大豆、小麦が特産品だが、忘れてならないのがきくらげ。炒め物だけではなく、生のままをわさび醤油で味わうものも、またオツなもの。
孫呉での宿舎は北苑賓館。部屋に入ってインターネットに接続しようと係りを呼ぶが、そんな設備はないとそっけなく断られた。昨年の河北旅行の際には田舎の小さな2階建てホテルでもインターネットが、しかも無料で使い放題だったことを考えると、田舎町とはいうものの、大都会の北京や天津を囲む河北省のそれと北辺の黒龍江省とでは大違いだ。
きくらげ料理も並んだ夕食後、今日の疲れをほぐそうとフロントで「足療(足マッサージ)」のサービスを尋ねたが、莫明其妙(チンプンカンプン)。どうやら足療の2文字が判らないらしい。疲労回復のための足の按摩だと説明すると、「裏手にある風呂屋で尋ねてみたら」。風呂屋の女性フロントの応対も要領をえない。これでは諦めるしかないと部屋に戻るが、こうなると好奇心の虫が動きだす。そこで再度ホテルを出るが、街は暗く商店街のシャッターは軒並み下ろされていて通行人もいないから尋ねようがない。怪しげな場所すら見当たらない。この街では、インターネットに続き足療も諦めるしかなかった。 《待続》